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藝術はなぜ存在するか
ナーティヤ・シャーストラかく語りき

前口上

前口上

突然ですが、日本はなぜ存在するのでしょう。

これは『古事記』に書いてある。

 

イザナギとイザナミが大地をつくった。イザナギの左目からアマテラスが誕生した。アマテラスが子孫のニニギに天孫降臨を命じた。すなわち天界から地上に降りてこれを治めよと言った。いまの九州は宮崎地方なのだそうです。そしてニニギの子孫が初代天皇の神武であると。神武は九州から東征して大和の国、いまの奈良地方で即位した。紀元前660年ということになっています。そこからずっと王朝が続いているのですね。そういう設定になっている。

 

これが本当にあったのか。もちろんないのです。ウソなんです。でも本当です。神話とはそういうもので、ウソだけど、本当なんです。神話と呼ばれる形式でしか語れないような「本当」なんですね。人間の知性はそういう働きがなぜか可能なんです。そして、このウソを本当としないことには、人間の共同体は成り立たない。いや個人のアイデンティティだってそうです。物語の水準の「本当」をつむいでゆく。

 

さて、今日のお題ですが、同じように、「藝術はなぜ存在するか」と問うてみましょう。

 

わたしはインド舞踊、カタックという古典舞踊を研究しています。インドの藝能の世界には『ナーティヤ・シャーストラ』という聖典が存在します。演劇理論とか舞踊理論と呼ばれます。成立は紀元前2世紀~紀元後2世紀頃とされますが、はっきりしたことはわかりません。そのあたり、仏教がインドにおいて力をもっていた時代、また『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩が成立し、ヒンドゥー教が成熟していく時代です。そのころ大枠ができて、少しづつ加筆・編纂されて現在のかたちになったらしい。

 

「ナーティヤ」とは、演劇や舞踊を含む、身体を使った表現藝術全体を指す言葉です。「シャーストラ」とは、権威ある論書・聖典・体系書を意味します。つまり『ナーティヤ・シャーストラ』は、「ナーティヤ」という芸術を包括的に解説した古代インドの権威ある論書、という位置づけになります。

 

この『ナーティヤ・シャーストラ』では、「藝術はなぜ存在するか」という問いに非常に明確な回答を与えている。『古事記』と同じように、神々の世界と人間の世界が接続されています。そして現代においても、インドの伝統舞踊はすべてこの『ナーティヤ・シャーストラ』を参照し続けている。すべてナーティヤから派生したものだというお話になっている。神様がああしてこうしてということが書いてある。これもまた、ウソでしか語ることができない「本当」です。おそらくはなんらかの実際の、現実の世界を、ある仕方によって反映しているのでしょう。

 

 

今日はそのお話。古代インド人が藝術、主に人間の身体でなされる表現行為一般を、なぜ、どのように存在すると考えたか。また、どう語ったか。これを見ていきましょう。

 

構成としては、三部になります。

 

『ナーティヤ・シャーストラ』における理論ではない部分、神話的な語りによって自己、すなわちナーティヤを措定している箇所が主に三か所ありますので、それぞれを順番に取り出します。『ナーティヤ・シャーストラ』は理論書なので、劇場の設計、身体操法、韻律、修辞法、吟誦法、衣装とメイクアップ、音楽理論など、いろいろ書いてある。今回そこは一切見ません。そもそも「ナーティヤ」がなぜ存在するのか、だけに照準します。

 

具体的には、『ナーティヤ・シャーストラ』全三十六章のうち、第一章・第四章、そして第三十六です。第一章で「ナーティヤ」の創造が語られます。第四章で「ナーティヤ」にある種の舞踊が追加されます。そして最終章において、「ナーティヤ」がいかにして地上にもたらされたかが語られます。ナーティヤ降臨です。

 

この三つの章を見ることで、『ナーティヤ・シャーストラ』の神話的な構造が浮かび上がります。すなわち、「藝術はなぜ存在するか」があきらかになる。

 

では、早速、第一章。古代インドの世界をのぞいてみましょう。

起源

第一章 ナーティヤの起源

ある日のこと、複数の聖仙がバラタという男を訪ねる。聖仙というのは霊的な位の高いひとを言います。宗教的に偉いひとです。バラタはいわば『ナーティヤ・シャーストラ』の主人公で、「ナーティヤ」の伝承者。

 

日課の沐浴を終えたバラタは弟子たちに囲まれている。聖仙たちが訊く。「『ナーティヤ・ヴェーダ』は、ヴェーダに比するものとされている。その作者のあなたにお尋ねする。どのようにして、また何のためにナーティヤを著述することになったのか。その主題は、正統性の由来は、またどのように表演するものか」

 

バラタは答える。「ナーティヤはブラフマーによって創造された。謹んで、注意深く聞かれよ」ブラフマーというのはバラモン教、アーリア人がもって来た宗教における最高神です。インド教とも言われるヒンドゥー教は、バラモン教と土着の信仰が融合したものです。

 

以下、バラタの語りが始まります。

 

昔、昔。まだ人間と神々がともに住んでいた時代のお話。ひとびとは強欲と嫉妬と怒りにとらわれ、野卑にして下品の生活に堕していた。神々のリーダーであるインドラはブラフマーに近づいて懇願した。「知識を授けてくれるだけでなく、目にも耳にも心地よいものをください。ヴェーダ(バラモン教における聖典、神の言葉)はシュードラが聞く/学ぶことを許されていません。すべてのカーストが享受できる、第五のヴェーダを創ってください」

 

ここで註釈が必要になります。第五のヴェーダというからには、すでに四つあるわけです。そしてシュードラはその四つにアクセスすることができないという背景が見えます。いわゆるカーストの問題。

 

バラモン(司祭)・クシャトリヤ(武家・貴族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)と階層に分かれていて、上の三つは再生族と言われました。シュードラは隷属民と呼ばれますが、上位三階層に奉仕するひとたち、被差別的な階層です。そして、ヴェーダはバラモン=司祭階級が司る神の言葉。

 

『ナーティヤ・シャーストラ』の成立時点で、すでに四つのヴェーダが成立していた。そしてシュードラだけがヴェーダから隔離されていた状況が、前提としてあるのです。

つづきます。インドラに請われ、ブラフマーは承諾しました。瞑想し、すべての藝術と科学と智慧を備えた第五のヴェーダを創造することに決めた。ブラフマーは、リグ・ヴェーダから言葉を、サーマ・ヴェーダから音楽を、ヤジュル・ヴェーダから動きと衣装を、アタルヴァ・ヴェーダから情緒を取ることによって。これが先に述べた四つのヴェーダです。既存の四つのヴェーダからそれぞれ要素を持ってきて、合わせて、第五のヴェーダ=『ナーティヤ・シャーストラ』をつくった。

 

そうしてブラフマーはインドラを呼んで言った。「これがナーティヤ・ヴェーダである。神々に演じさせよう。演者には聡明で、知的で、注意深く、節度ある者であることが求められる」インドラは答えます。「神々はそれらすべての資格を満たしていないので不適である。聖仙がふさわしい。なぜなら彼らはヴェーダの知識をもち、かつ節度ある者だから」

 

そうしてブラフマーは聖仙であるバラタとその息子たちに任せることになった。ヴェーダの知識をもっているわけですから、階層としてはバラモン司祭階級と理解してよいでしょう。

 

準備が整ったことを報告すると、ブラフマーはバラタに「優雅な様式(kaiśikī)」を追加するよう提案し、必要なものを挙げよと告げた。バラタは言った。「シヴァの舞の際、わたしは彼の優雅な様式を目にした。それは女性がなすもので、美しい衣装とふさわしい音楽があった」そこで、ブラフマーは天女(アプサラス/apsara)を創造した(あわせてスヴァティが演奏のためナーラダが歌うために創造された)。

これで準備が完了です。

 

ブラフマーが言った。「運のいいことに、ふさわしい機会が近づいている。インドラの『旗の祭り』がある。そこでナーティヤを披露すればよい」それはインドラがアスラ(悪魔)に勝利するのを祝う祭りだった。ブラフマーをはじめ神々はその上演に満足した。しかしアスラは、こんなもの認められないと怒り、幻影(maya)の力で、言葉と動きと記憶を凍らせてしまった。インドラは旗の竿でアスラを粉砕した。

 

こういうことがあっては困るので、バラタはブラフマーのところへ行き、ナーティヤを守るすべを求めた。そこでブラフマーは建築士のヴィシュヴァカルマを呼んで劇場を設計させた。完成ののち、各部の守護に神々を当てた。神々はブラフマーに言った。

 

「アスラに対しては、まず融和的になだめるべきです、それが駄目なら贈り物によって、それでも無理なら内部不和を起こさせる。これらすべて効果を発揮しなかった時にはじめて力を行使すべきです」

ここで政治哲学、あるいは平和論みたいなものが導入されるのも興味深いものがあります。その平和論を、ブラフマーは実行する。ブラフマーはアスラに訊いた。なぜナーティヤ・ヴェーダを破壊しようとするか。

 

「アスラもあなたの被造物であるのに、われわれを打ち倒す劇をするなど酷いではないか」

「わかった。怒りはもう十分だ、その不満は捨ててよい。わたしはナーティヤ・ヴェーダを次のごとく編纂した。良い行いも悪い行いも、また神々のみならずアスラの考えをも反映したもの。世界のあらゆるありさまを代表するものとして」

 

かようにブラフマーは一度失敗するわけです。アスラを打ち負かす劇をつくったが、アスラに反撃されてしまう。そこで神々に説得されて、アスラもまた満足するようなナーティヤでなくてはならない。悪い者、敵、敗者、そういう存在に対しても配慮したものがナーティヤであるというわけです。

ブラフマーの説明が続きます。

 

ナーティヤには、ダルマ(正しい生き方)も、アルタ(実利)も、カーマ(愛)もある。笑いも、争いも、貪欲も、殺しもある。過てるひとには正しさを、楽しさを求めるひとには喜びを、礼を知らぬものには節度を、節度を知るひとには寛容を、臆病ものには勇気を、勇気あるものには誉れを、無知なるものには知識を、知識あるものには智慧を、豊かなものには趣味を、悲しむものには強さを、豊かになりたいものには金を、動揺するものには安心を与える。

 

ナーティヤはありとある感情と物事を含む、世界の在り方の縮図である。平和と娯楽と幸福を与えるもの。役立つ忠告を授けるもの。安寧と平穏を与えるもの。ナーティヤに含まれないいかなる格言も、学問も、技藝も存在しない。最後にブラフマーは神々に言った。「劇場では必ずふさわしい儀式を行うこと。劇場へのプージャ(礼拝)を忘れてはならない」

これで第一章が終わりです。

整理しましょう。

 

ナーティヤは第五のヴェーダです。ヴェーダとは神の言葉、それによって神からの恩恵を受けるための宗教的知識です。既存の四つのヴェーダからはシュードラ階層が排除されている。だからシュードラたちのために第五のヴェーダが求められた。この設定が冒頭極めて明確に語られています。

 

被差別階級にあるひとたちも救われないとダメだと言っている。階層性は前提です。けれども、思想や藝術のレベルでは、人間は平等であり、平等に救われるべきであるという考えを読むことができるでしょう。

 

その意味で、おそらくは同時代に隆盛した仏教思想とも共鳴していると言えそうです。『ナーティヤ・シャーストラ』は第五のヴェーダですから、まさにバラモン世界の内部で、階層社会の負の側面を補完するようなものとして構想されている。

 

ブラフマーが一度失敗するくだりも興味深いものがあります。アスラ、すなわち悪い者の考えや行為をも反映していないとナーティヤにはならないと。それでこそ世界全部を描くことになる。且つ、ひとびとをダルマ(正しい生き方)に導き、アルタ(実利)を与え、カーマ(愛)をも感じさせる。そのような藝術表現が、ナーティヤなのです。

 

これで完成と言えば完成です。

 

続いて第二章では劇場の構造について論じられ、第三章では守護の儀礼について説かれ、第四章においてナーティヤを上演する。そこでまたある要素が追加されることになる。何段階かの追加を経る展開は、おそらく『ナーティヤ・シャーストラ』の多層的な形成過程を反映しているのでしょう。

 

では第四章に進みます。​

ヌリッタの追加

第四章 純粋舞踊(Nrtta)の追加

劇場が完成し(第二章)、守護の儀礼(第三章)を終えて、バラタはブラフマーに言った。「さてなにを上演したらよいでしょう」ブラフマーは答えた。乳海撹拌(アムリタ・マンタナ/Amṛta-manthana)をせよ。これは『マハーバーラタ』にある有名なお話。神々とアスラが一緒に大海を廻して、飲むと不死になる甘露(アムリタ)をつくるというものです。それをやりなさいと。

「わたしはサマヴァカーラ(Samavakāra)(そういう劇様式があるとされる)を創造した。これは観客を、ダルマとアルタとカーマに関して啓蒙するものである」

サマヴァカーラが上演されると、神々だけでなく、アスラもまた、自分たち自身の姿を舞台に見出して喜んだ。

いくらか経って、ブラフマーはナーティヤをシヴァに見せることを思い立つ。ブラフマーと神々とバラタがシヴァ神を訪ねた。ヒマラヤの丘陵でナーティヤを披露した。シヴァは言った。

 

「素晴らしい。ナーティヤは、成功をもたらし、幸福に導き、知恵を授けるものだ。わたしは様々なカラナ(karana-s)とアンガハーラ(angaharas)からなる、かつての自分の踊りを思い出した。これを序幕に追加せよ。舞踊の動きによってその内容を適切に表現せよ」

ここで思い出しておくべきこととして、シヴァは第一章において、登場はしていないが言及されていました。ブラフマーがナーティヤを創って、バラタに対して「優雅な様式」を追加したいと言い、それに対してバラタが、かつて見たシヴァの踊り、女性がなすもので、美しい衣装とふさわしい音楽とともにあるものがふさわしいと答えた。それでアプサラスこと天女が創造された。

 

今度はシヴァ本人が登場して、自分の踊りを追加せよと言う。では第一章で追加されたシヴァの踊りと、第四章で追加されるシヴァの踊りの関係性はなんなのかという話になる。別で論じられているから別のものと考えるのが自然ですが、内容的には近いものがある。でも同じなら追加する必要もないわけです。流れとして綺麗でない。

 

ここで想像をたくましくするなら、シヴァの踊りとされる要素が時代とともに増えていって、巨大化し、重要な地位に育ってきたので、一章まるまる使ってシヴァに説明させるような構成にあとから強引に編集したのではないでしょうか。

 

続けます。ブラフマーはシヴァにアンガハーラ(angaharas)の説明を求めた。シヴァは助手のタンドゥを呼んで解説させた。タンドゥは三十二のアンガハーラ(angaharas)を語る。それは一〇八のKaraṇas(カラナ)を組み合わせたもの。

 

ここはあまりに細かいので飛ばします。いろいろ説明があって、まとめがあります。シヴァがたくさんの舞踊の動きをつくり、タンドゥに授け、タンドゥはそれらを用いて、歌や楽器の演奏を伴う舞踊を作り上げた。それゆえこの舞踊はターンダヴァと呼ばれると。

 

次が重要です。バラタがシヴァに問う。「身振り(ジェスチャー/abhinaya)は意味を伝えるために考案されたものである。では、ヌリッタ/nrtta(文脈上ターンダヴァのダンスと考えざるを得ない)はなぜ与えられたのか。その本質はなにか。言葉や意味とは関係がないように見えるが」

 

「その通りである。ヌリッタ/nrttaは意味を伝えない。ただ美しさを生みだすだけだ。なぜならそもそも人々は踊りを好むし、踊りは吉祥のものだと考えられているからだ」

 

次いで、ヌリッタのいわばルール設定のごとき説明があり、最後に「シヴァによって創られたこの舞踊を立派に演じた者は、あらゆる罪から解き放たれ、シヴァの御許へと至るであろう」と記される。

 

これで第四章が終わりです。

まとめましょう。

 

第四章の主人公はシヴァです。最後に「これを踊ればシヴァのもとへ行ける」とまで語っている。ヴェーダの神であるブラフマー崇拝よりも、アーリア人侵入以前の、土着の信仰に根差すとされるシヴァへの崇拝が強く出ている。異なる伝承が重ね合わされて『ナーティヤ・シャーストラ』が成立したことを示しているように見えます。

 

第一章でブラフマーがナーティヤをつくり、四章でシヴァがヌリッタを追加した。これでナーティヤの完成です。このあとの章では長々と細かな理論構築がなされるのですが、今回の動画では飛ばします。

 

いよいよ最終章において、ナーティヤがいかに地上世界にやってきたかの説明がなされます。

ナーティヤの降臨

第三十六章 ナーティヤの降臨

(前章までの内容を)聞き終えたあと聖仙たちは問うた。

 「わたしたちはナーティヤ・ヴェーダを正しく理解することができました。しかしまだ語られていないことがあるのではないでしょうか。ナーティヤはどのようにして天から地上に降りてきたのでしょうか。なぜ、あなたの子孫たちはシュードラと呼ばれるようになったのですか?」

この展開はドキリとさせられます。バラタの子孫、すなわちナーティヤを担う藝能者たちは被差別階級であるシュードラになってしまっているようです。第一章を普通に読めばバラタも息子もバラモン階級です。ヴェーダの知識をもっているひとたちですから。そのバラタと息子たちが、シュードラを救うための第五のヴェーダことナーティヤを授けられたという話でした。

 

妙な新設定ですが、とにかく読んでみましょう。

 

バラタは答えます。息子たちは皆、ナーティヤ・ヴェーダの知識に酔いしれ、時が経つにつれて、下品な目的で披露するようになった。聖仙たちを風刺し、揶揄し、貶めた。彼らは激しく怒った。

 

「バラモンたちよ、我々がこのように揶揄されるのは不当である。この侮辱は一体何のため、どのような意図でそうするか。ナーティヤの知識ゆえに傲慢に陥ったのであれば、その邪悪な知識は滅び去ることになるだろう。バラモンの集まりにおいて、あなたがたはシュードラのような扱いを受けることになるだろう。あなたがたの血筋に生まれる者たちはシュードラとなるであろう。そして子孫は藝能者となり、妻や子供たちと共に他者に奉仕するものとなる」

 

これで役割と階級が明確になります。バラモンたちよと呼びかけられていますから、バラタの息子たちはやっぱりバラモンなんです。でも聖仙を貶めたせいで、シュードラのごとき扱いを受ける。しかも子孫はシュードラすなわち隷属民になるだろうと呪いをかけられてしまう。ここは深刻な読みを誘発します。

 

すなわち、インドにおいて藝能者の社会的地位はどういうものであったか。ヴェーダと同等の価値をもつナーティヤの担い手ですからバラモンであるとは言える。が、実際の社会ではシュードラのように扱われたり、そもそもシュードラであったりする。そのような存在であったということかもしれません。現代においても、わたしたちは藝能者に対して羨望と蔑視をふたつながらに抱いている。要するにそういうことかもしれません。

 

さて、それを聞いた神々は不安になった。インドラは言った。

「それではナーティヤは滅びてしまう」

「いいや、ナーティヤは滅びることはない。しかし呪いの残りの部分はすべてその効力を発揮するだろう」息子たちのうちひとりがバラタに訴えた。

「あなたのせいでわたしたちは破滅させられ、シュードラになることになった」

「怒ってはならない。聖仙の言葉は現実化する。それは運命だ。しかし自らを滅ぼすような道へ進むべきではない。このナーティヤはブラフマーによって説かれたものであることを知れ。弟子たちや他の人々にこれを教えなさい」

 

そうしてナーティヤはアプサラスに受け継がれた。というふうに書いてある。このアプサラスの役割も第一章と異なります。第一章でアプサラスは優美な女性的な表現を担う者としてブラフマーが創造したという設定でした。ナーティヤ全体を受け継ぐ感じではなかった。

 

このつながりも妙です。ともあれ続けましょう。

 

時が経ち、ナフシャという王がその統治手腕、知恵、そして武勇によって天界の王位に就いた。彼は神々のような繁栄を享受した。ナーティヤを見た彼はこれを地上で上演したいと考え、神々に願い出た。「アプサラスによる演劇を、地上で上演させてください」

 

神々は答えた。「聖なるアプサラスと人間との交わりは認められていない。しかし、あなたは天界の主であるから、友好的かつ適切な助言を与える。バラタの元へ行きなさい」ナフシャはバラタを訪れ、ナーティヤを地上にもたらすことを要請した。バラタは言った。

 

「プルーラヴァスの宮殿において、ナーティヤはウルヴァシー(代表的なアプサラスのひとり)によって後宮の女たちとともに保持されていた。しかし、ウルヴァシーが姿を消したために王は狂乱し、そののち亡くなった。後宮の女たちはその死を深く嘆き悲しみ、その結果、この演劇(ナーティヤ)の伝統は失われてしまった」

 

このバラタの説明もよくわからぬものがあります。というのはプルーラヴァスは人間の王でありまして、天女であるウルヴァシーとの恋物語が有名です。これも『マハーバーラタ』に入っています。とするとナーティヤはすでに地上に降りているわけです。しかし妙なことに、このあとで、まさにナーティヤが地上に降りる話がされる。

 

単純に、有名なプルーラヴァスとウルヴァシーの恋物語とナーティヤの創造及び降臨を結びつけるために、いわば権威の補強のために挿入されたのかもしれません。

 

さてナフシャは言いました。「ナーティヤが地上において広く上演され、人々に幸福と吉祥がもたらされることを願う。地上において、女性たちの優雅な舞いによって演じられるナーティヤがほしい」

 

バラタは諾した。息子たちを呼び寄せ、言った。「地上に降りて、ナーティヤを伝えなさい。あなた方の呪いは解かれ、もはや軽蔑されることもなくなるだろう」

 

そうして、バラタの息子たちはナフシャの住まいに降り立ち、女性たちの助けを借りて、様々なナーティヤを制作した。その後、バラタの息子たちは地上の女性たちとの間に子孫をもうけ、彼らのために様々なテーマに基づくさらなる劇を考案した。子供をつくり、順序立てて劇を考案した後、彼らは再び天界へ戻ることを許された。

 

このように、ナーティヤは、「ある呪い(シュードラになるであろうという)」によって地上にもたらされたのである。

 

いよいよ最後です。一種の宣言のようなものがなされます。

 

ナーティヤは次のようなものである。ひとを楽しませるもの、浄化するもの、聖なるもの、罪を滅ぼすもの。これを読む者、聴く者、演じる者、注意深く鑑賞する者は、ヴェーダを学ぶ者・供犠を行う者・布施を行う者・修行する者、と同じ恩恵を享受するであろう。これは最大の恩寵である。

 

ナーティヤに関して多くを語った。言及されていない事項については、人々のやり方を観察した上で、実践に組み入れるべきである。これ以上、何を語るべきだろうか。世界から強欲と病がなくなりますように。大地が穀物で満たされますように。牛とバラモンに平安があり、王が世界を保護しますように。

 

これで最終章が終わりです。

​まとめ

まとめ

全体を振り返りながらまとめましょう。

 

『ナーティヤ・シャーストラ』という古代インドの演劇論あるいは舞踊理論、ひろく言えば藝術論の第一章と、第四章と、第三十六章を読みました。この三つの章により神話の構造が示されている。

 

第一章では、ナーティヤが、インドラに請われてブラフマーがつくったものであること。第五のヴェーダであり、被差別階級であるシュードラを含むすべて階級のひとびとにひらかれたものであること。知識を与えるのみならず、目にも耳にも心地よいもので、ダルマ(正しい生き方)も、アルタ(実利)も、カーマ(愛)に通じるものであることが述べられていました。

 

第四章では、舞踊の神であるシヴァが登場し、ブラフマーがつくったナーティヤに対して、ただ美しさを生みだすだけの純粋な踊りを追加したのでした。それは吉祥の性質をもち、正しく踊れば、シヴァのもとに行ける、すなわち宗教的な救いを得られると述べられました。

 

そして最終章では、ナーティヤが地上に降りてきた経緯が語られました。他の章と比べて、いくぶん生々しい、現実的な権力関係とかジェンダーの分離みたいなものが露出している気がします。

 

まず、ナーティヤの保持者であったバラタの息子たちが傲慢のために呪われシュードラとなった/なるという設定。それ以降はアプサラスこと天女がナーティヤを担っていたという挿話。地上の王であるナフシャの要望をきっかけに、バラタの息子たちが地上に降り、女性たちの力を借りて、また地上の女性との間に子をつくって、ナーティヤを伝えたという展開。その結果呪いは解かれ、バラタの息子たちは天上に戻ったという結び。

 

これをどう読むべきでしょうか。

 

もともとバラモンであったバラタの息子たちが、ナーティヤを授けられたがゆえに被差別階級であるシュードラに堕ちてしまった。先に触れましたが、これはあるいは藝能者がカーストとしてはバラモンであってもシュードラのような社会的地位にあったこと、宗教的な位相は高くても社会的地位が低かったことを反映しているのかもしれません。

 

また第一章では、ナーティヤはバラタの息子たちに伝承されたという話で終わっていました。対して最終章では、女性がナーティヤの担い手として強調されている。これは指導者がバラモンの男性であり、演者のほうは低カーストの女性であるというような分業体制を暗示しているのかもしれません。

 

深入りしませんが、日本における出雲阿国や藝者の伝統に似たもので、デーヴァダーシとかタワイフという名で呼ばれますが、インドでは女性の藝能者が寺院における神の伴侶とか召使いといった名分で生活していた。いわゆる遊女です。おそらくは性的な奉仕もあったであろうと考えられます。

 

そのあたりの永遠にあきらかにならないであろう語られない歴史が、天から来たバラモンの息子たちと地上の女が子をつくってナーティヤが継承されるという構成に結実しているのかもしれません。

 

そしてナフシャという王の要請がきっかけでバラタが動き、息子たちに地上に行くよう命じるという展開は、藝能者と権力との結託とか、権力者の庇護なしに生きられないという藝能者のリアルを示しているのかもしれません。

 

最後のまとめでは、「かもしれない」を繰り返しました。神話を読むというのはそういうことでしょう。それは「かもしれない」でしか語れないものを語っている。ぜんぶ「ウソ」なんです。でも「本当」なんです。だから「かもしれない」と言う。

 

どのような「かもしれない」に至る読みをするか、そこからなにを汲み出すかは、わたしたち次第です。そのような誠実な営みを続けることが、伝統や歴史と付き合うということでしょうし、それができてはじめて、現代における伝統藝能が力をもつ。わたしはそのように考えます。

参考文献

 

書籍

  • Kathak: The Dance of Storytellers;  Rachna Ramya  2019

  • The Natyasastra: English Translations With Critical Note; Adya Rangacharya 1984

 

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