江戸川カタック社
北インド古典舞踊カタックを学ぶ教室です。
Guru. Nutan Patwardhan JI.
ヌータン・パトワードハン先生のこと
わたしのグル(師)、ヌータン・パトワードハン先生のことをお話します。
「カタックについて」の第一部の後半で、ビルジュ・マハラジによってひとつの頂点を迎えた現代カタックが、「伝統」方向と「コンテンポラリー」方向に分化して進化を続けていることを述べました。そして、「伝統」方向への代表者としてシャマ・タイの功績に触れました。
ヌータン先生は、そのシャマ・タイの弟子です。ここからわかるように、ヌータン先生もまた「伝統」方向の探求と洗練を目指して活動されているダンサーです。
ヌータン先生は長くナーランダ舞踊研究所(Nalanda Dance Research Centre)というムンバイの舞踊専門学校のカタック部門の長をされていました。
ここはわたしの記憶があいまいですが、たしか2021年か2022年に辞し、現在は自身の主宰するアヴァルタン・カタック学校(Avartan School Of Kathak)を拠点に活動しておられます。
ちなみにわたしは現在(2025年8月)、アヴァルタン校の5年次の生徒です。全課程は7年次まであり、試験に合格するごとに提携しているナーランダ舞踊研究所から修了証が発行されます。
アヴァルタン学校の理念は次のように始まります。
「アヴァルタン・カタック学校は、純粋な古典的カタックのみを指導する。インドの伝統文化を、高度の専門性において、普及することを目指す。」
ここにヌータン先生の伝統指向がはっきりと宣言されています。実際に指導を受けて、その徹底ということを強く感じます。ヌータン先生は、自身が師から学んだ技藝を弟子たちにつたえることに、人生を捧げておられます。
もちろん自分の作品をつくることもあれば、振付を依頼されることもあります。しかしそれはメインの活動ではありません。技術的、能力的にコンテンポラリー方向の表現も可能です。でもそういうことはしません。ネットで有名になるための発信も皆無です。
それは創造性をどこに向けるかという、個性や資質に関わることと思います。ヌータン先生の創造性は、なにか新しい革新的な試みをすることではなく、古典の枠組みを遵守し、その内部で、自身の美学にもとづいて、技藝をさらなる高みへと洗練させることに発揮されています。
そう。ヌータン先生のダンスの魅力をひとことで表現するならば、わたしは「洗練」という言葉を選びたいと思います。
ヌリッタ(抽象舞踊)においても、ヌリティヤ(表現的舞踊)においても、その洗練は歴史の先端に立っていると、わたしには感じられます。
力強く躍動的なヌリッタと、優雅で気品あるヌリティヤの両方をこの水準でおこなえるのは、極めてまれなことと思います。
2024年4月にムンバイに滞在したおり、簡単にではありますが、ヌータン先生から人生の来歴についてお聞きました。そのときうかがったお話をもとに、先生の物語を素描いたします。
こういう文章を書くことを想定していなかったので、細かい所はわかりません。今度お会いしたときにきちんとインタビューをさせていただき、より整理した改訂版を書きたいと思います。
さしあたりいま書けるのはこんなところです。
ヌータン先生の家系は、代々教育を重んじる家柄であるそうです。と言ってもそれは藝術ではなく学問の領域に関し、お父様は教師をされていた。インドの西部、ムンバイの南にプネーという大きな都市があります。お父様はプネーで初めての夜間学校を設立された方だそうです。
兄は医者になった。ヌータン先生もなんらかの知的労働につくような方向で教育を受けていた。「Chartered Accountant」と聞こえました。あとで調べるとこれは会計士だそうで、両親の当初の計画では、娘を会計士にするつもりだった。
ところが誰でもすぐに気づくような天賦の才を、幼いヌータン嬢は持っていた。
学校で簡単な詩を覚えてちょっとしたダンスを踊るような機会がある。すると明らかにほかの子と違う。まるでどこかで訓練を受けてきたみたいに、表情にしても手の所作にしても、見事な表現をする。教師もほかの親も驚いて、この子に古典舞踊を習わせるべきだと言った。
そうして父が人づてからある男性の先生を連れてきた。家でダンスを学ぶようになった。2年生、7歳の時でした。それが7年生まで続いた。
わたしはインドの学制を知らないのですが、先生は○○th standardという言い方をされました。どうやら日本の小学校・中学校・高等学校をまとめて○○th standardで表現するようです。期間としては同じで1から12まで。ここでは○○年生と訳します。
さて、あるときひとに言われた。あなたがやっているのは正統な古典舞踊ではない、フォークダンスが混じっていると。どうもその先生から習っていたのはちゃんとした古典カタックではなかったようなのです。周りにそうした知識をもっているひとがいないので、わからないまま続けていた。それで一度やめてしまった。
さて10年生(高一)の終わりに休暇があって、あるプログラムに参加した。そこで、マネーシャ・サテ先生(Guru. Maneesha Sathe ji 1953-)の公演を見た。それがとても素晴らしかったので、彼女の指導を受けることにした。1980年頃のことと思われます。
ヌータン先生は3人のグルを持ちます。最初のグルがマネーシャ・サテ先生です。わたしはこうして書いてみて初めて気がついたのですが、ヌータン先生は1964年生まれですから、そこまで年齢は離れていないのですね。公演を見たのが高一で16歳とすると、マネーシャ先生は27歳くらいでしょう。
マネーシャ先生もたいへん著名なダンサーで、公式HP(こちら)によれば、早くも1975年に舞踊学校を設立されています。わたしはユーチューブでしか見たことがありませんが、素晴らしいダンサーと思います。
マネーシャ先生の指導を受け始めて一年後には、シニアクラスへの参加を認められるようになった。そうして様々な公演に同行させてもらい、競技会にもたくさん出た。参加した競技会では必ず賞をもらった。「そのころには自分の才能についてはっきり自覚するようになっていた」と先生はおっしゃいました。
しかし父は認めなかった。会計士になれと言います。自分はダンスを追求すると言う。お父様はすごく怒ったそうです。そんなら結婚しなさいという話になり、結婚したそうです。
わたしが聞いたときの展開ではここで1993年に話が飛びます。すると29歳とかですから、結構あいだがあくことになります。この間の事情はおそらく以下でしょう。
娘さんのキタキ先生は1987年生まれですから、先生が23歳のときです。そうすると、たぶんヌータン先生は12年次を卒業して、どこか4年生大学を出て、すぐに結婚し、おそらくムンバイに移住した。プネーにいるあいだはマネーシャ先生のもとでカタックを学んでいたはずです。
ヌータン先生はムンバイで2番目のグル、マドゥリータ・サラン先生(Madhurita Sarang ji ?-2006)の指導を受けるようになった。マドゥリータ先生の名前はお話を聞いたときには出なかったのですが、ムンバイで活動していたダンサーですから、ムンバイ移住後に師事したと考えてよいでしょう。
1987年に娘を産み、しばらくは子育てをしながら、マドゥリータ・サラン先生のレッスンを受けていたと想像します。おそらくこの頃には自ら指導する機会も持ち始めていたでしょう。
マドゥリータ先生もまた著名なダンサーですが、わたしが検索した限りでは公式らしきホームページはなく、ユーチューブでも姿が見られません。世代的にネット文化に親和性が乏しかったか、情報開示に熱心ではなかったのでしょう。2006年に亡くなられています。
さて、あいだが埋まりましたので、1993年です。先生はプネーでおこなわれたビルジュ・マハラジのワークショップに参加した。それはシャマ・バテ先生(Shama Bhate 1950-)、愛称シャマ・タイの学校ナドループ(こちら)が主宰したものだった。
そこでシャマ・タイと生徒たちは素晴らしいパフォーマンスを披露した。ヌータン先生は感激して、是非ともシャマ・タイの指導を受けたいと思った。そこからシャマ・タイの指導を受けだした。シャマ・タイはヌータン先生の3番目のグルです。
「シャマ・タイがわたしのメインのグルである」とヌータン先生はおっしゃいました。
日常のレッスンやふだんの会話のなかで、ヌータン先生の口から出るダンサーでいちばん多いのは、やはりシャマ・タイです。いまでもオンラインレッスンを受けておられます。
ヌータン先生がいつからナーランダ舞踊研究所で指導をはじめたのか定かでありませんが、お話によれば2000年頃から月に2回、プネーのシャマイ・タイにムンバイのナーランダまで指導に来ていただくようになったそうです。朝10時から夕方17時まで中断なく踊り続けたと。
個人レッスンの機会もふんだんに得られたと聞きました。その話しぶりから、シャマ・タイの存在がヌータン先生にとって非常に大きいことを感じます。
シャマイ・タイに出会って、自分にとってのカタックの意味が変わった。もう大人になってからついた師匠だから、技術的なことや豊富なレパートリーはもちろんだが、内面に関すること、スピリチュアルな面で影響を受けたことを強調されました。
加えて。ヌータン先生はビルジュ・マハラジの指導を受ける機会にもめぐまれました。マハラジは2年に一度、ムンバイで上級者向けにワークショップを開いていたそうで、ヌータン先生はその選抜メンバーであったそうです。
2024年に聞いたお話はここで終了となります。
実際、ヌータン先生のクラスではマハラジの作品を習う機会がけっこうあります。上の小品はわたしは習っていませんが、コメントによればマハラジの振付のようです。
先の述べましたとおり、ヌータン先生の創造性は、カタックに新しいレパートリーや革新的な振付を導入するという方向ではなく、師から継承された技藝を洗練させることに向けられています。少なくともわたしはそのように認識しています。
この短い振りに見られる特徴的なリズム感覚、うねり、緩急のグルーヴはその最大の達成のひとつと思います。こういった気品を保ちながらの躍動が、わたし含めて生徒たちのあこがれとなっています。
この種の達成は、あるていど素養を積み目が肥えてこないと評価しづらいものと思いますが、このように解説されると、なんとなくその深みがおわかりいただけるのではないでしょうか。
こうしたうねりと躍動は主としてヌリッタ(抽象舞踊)に現れるものです。ではヌータン先生のヌリティヤ(表現的舞踊)、あるいはアビナヤの特徴はなにかと言うと、これはなにも言っていないに等しいかもしれないのですが、「余裕」だと思います。
それは先生自身が子供のころから得意だった、ギフトであると言っておられましたが、すばらしい才能の持ち主が長いあいだ猛烈な努力をした結果、とてつもなく高度なことをしているのに、まったくそう感じさせないほどに余裕がある。そういうことなのだと思います。
偉そうな言い方になってしまいますが、年齢を重ねると肉体的な強度を要請されるヌリッタはとうぜん限界が出てくるでしょう。しかし強さや速さではない精妙な動きと精神性の藝であるアビナヤについては、おそらくヌータン先生はもっと先に行かれるのだと思います。
わたしはカタックを知ってのち、ユーチューブの検索窓に「Kathak」と入れて出てきた動画を片端から見ていき、やがてヌータン先生を知り、このかたがいちばんだと思い、弟子入りを決めました。
当時はなんの知識もありませんでしたが、まっさらの目でヌータン先生の藝術の価値を理解した自分の美的感受性に対して、いまでは自負と信頼を感じています。
アビナヤがメインの動画をふたつ貼り付けて、終わりにいたします。ヌータン先生は技術的に卓越しているので、照明や撮影機材で特に映えるようにもしてない、さらっと踊ったものがこの上なくよかったりするのです。