江戸川カタック社
北インド古典舞踊カタックを学ぶ教室です。
ボル(Bol / बोल)とはなにか
-インド藝能における「タッタタラリラ ピーヒャラ ピーヒャラ」-
ちびまる子ちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」の歌詞に意味のない音節の連なりがあります。
タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
音とリズムがむやみに楽しいですね。どこか呪文のようでもあります。魔人が出てきたり傷を治したりは出来そうにないけれど、口ずさむとウキウキしてしまうのだから、「魔法のよう」と形容することはできそうです。
さくらももこ氏の天才を示す音節句の傑作と思います。
いま音節句といったのはわたしの造語です。詩句という言葉はありますが、詩にはまだ「意味」が残っている。「ピーヒャラ ピーヒャラ」的なものは音そのものには意味がない、ただの音節であることが特徴なので「音節句」としました。
なぜこんな言葉をつくったかというと、「カタック」という北インドの伝統舞踊にボル(Bol / बोल)という概念があり、その訳語として考えたのです。
ボルはカタックに限らずインドの舞踊、楽器、ひろく藝能の世界でつかわれる言葉で、「ピーヒャラ ピーヒャラ」的な無意味な音節の連なりを術語化したものです。ボルを覚え、朗誦し、それに合わせて踊る。
ヒンディー語で「言う」という動詞は बोलना(bolnā)だから、そこから派生したものでしょう。
無意味な音節の連なりがなにを表現しているかというと、リズムです。
リズムは根源的な力、うねりのようなもので、時間的にも空間的にも表象される。つまりは耳と目、音と形をつなぐかなめの概念といえます。時間的でもあれば空間的でもあり、視覚と聴覚をつなぐというのは、実に不思議なことです。神秘的です。
インド神話に「ナタラージャによる世界の創造」というおはなしがあります。「ナタラージャ」は最高神シヴァの一形態で、ナタ(नट)は踊り、ラージャ(राज)は王という意味です。踊りの王です。このおはなしによれば、世界も宇宙もぜんぶ、ナタラージャが踊りながら創ったそうです。
古代インドの舞踊家が、踊っているときに高度の瞑想状態に入り、「世界はリズムで出来ている」と悟り、このような神話のかたちで伝わったのでしょう。
さて、この真理は現代物理学とも「共鳴」するらしい。
世界最大規模の素粒子研究施設であるスイスの欧州原子核研究機構(CERN:セルン)に、ナタラージャの像が設置されています。

素粒子物理学についてはさっぱり分からないのですが、極めて雑に言うと、まづいちばん小さな物質は素粒子であると。そして素粒子は場の「振動」や「ゆらぎ」の姿なのだそうです。
とするとやっぱり「世界はリズムで出来ている」ので、瞑想で悟られた真理と現代科学による仮説が符号するという理屈になる。
さて、ことほど左様にインド人は古代よりリズムの不思議に尋常ならざる関心をもっていたらしく、リズムを表現する無意味な音節の連なり、すなわちボルを精緻厖大に発達させました。
インド舞踊においては、まづボルを朗誦して観客にリズムを伝え、次にそのリズムに合わせて踊るという形式が一般的です。リズムの快をただ楽しむもよし、そこに神秘的な力を感じるもよしです。
ボルの魔的な魅力、リズムの快を感じられる表現として、クマール・シャルマ(Kumar Sharma)という現代を代表するダンサーのソロパフォーマンスを紹介して終わりにします。
ダンサーがその場でボルを組み立てて踊る、即興が魅力の「Upaj」という演目です。
この動画では楽器演奏にボルの朗誦を重ねて音源をつくり、それに合わせて踊っています。
タッデッター タッデッター
ティティダ ティティダ ティティダ
タティナター タティナター
とか聞こえるのが「ボル」です。ここで彼はいわゆる振付らしい振付をほとんど踊っていません。しかし完全な即興でないのはあきらかで、やはり振付のようなものは存在しています。
完全にリズムの快だけに照準した動きで、「振りになる手前」のように見えます。「リズムがかたちを獲得する瞬間」をとらえた表現であると言えるでしょう。そう考えると、無類の楽しさと神秘的な力が同居していることが理解されるでしょう。
マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」における、マイケルが「ノっている」状態に近いと思います。リズムと身体が出会う現場をいままさに見ているという感動が、マイケルの即興にはあります。
(ご不明の向きは映画「THIS IS IT」をご覧ください)
カタックはそういう表現をひとつのレパートリーとして確立しているのです。そんな凄みもまた、伝統舞踊の魅力と言えるでしょう。