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カタックはこんなもの

カタックはこんなもの

 
カタックというダンスがあります。

北インドの伝統舞踊です。

​どんなビジュアルでどんなふうに踊るのか、はじめに現代の最高峰の表現を見てイメージをつかんでいただきましょう。

全篇を見る必要はありません。

さらっと流して「ふむふむこんな感じか」と思っていただければよいのです。

​下は筆者のグル(師)、ヌータン・パトワードハン先生(Nutan Patwardhan 1964-)の2017年の表演です。

舞台の下手に演奏者がいて、いかにもインドというような旋律を奏でています。

リズムフレーズを声に出して歌うひとがいて、それにあわせて踊っています。

一段落すると決めポーズがあり、そこで観客が拍手をします。

次は男性を見てみましょう。


いま生きているダンサーのなかでおそらく最も有名で人気がある、ラジェンドラ・ガンガニ(Rajendra Gangani 1966-)という方のパフォーマンスです。

足を激しく踏み、足首に付けた鈴を景気よく鳴らしています。

足のリズムは打楽器とユニゾンし、リズム構成と強弱の妙によって心地よいグルーヴをつくっています。

ここでも決めポーズで拍手が起こります。

1,優雅で気品ある美しさ
2,リズムの快楽

​カタックの魅力として、まづこのふたつを挙げることができます。

起源

起源

カタックの起源は、古代インド北部を旅しながら物語を語った吟遊詩人「カタカ(Kathakars)」です。
 

 

「カタカ」は「語り部」を意味し、カタックという言葉は、ヴェーダに見られるサンスクリットの「Katha(物語)」および「Kathakar(語り手)」に由来します。
※ヴェーダとは、古代インドの宗教的・哲学的な聖典で、ヒンドゥー文化の源流とされています。

物語とは神話や伝承です。カタカたちは村々をまわり、神について、英雄について、歌と踊りを交えて語りました。

しかしそれはあまりに遠い昔のことで、実際にどういうものであったかは定かではありません。


言葉としての起源はたしかに紀元前の「カタカ」にありますが、おそらく今のわたしたちが目にするダンスとはおおきく異なるものだったはずです。

​その理由は、以下の項目が明らかにするでしょう。

踊る少女、踊るシヴァ

踊る少女、踊るシヴァ

インド的美意識の特徴をつかむために、有名な造形物をふたつ紹介します。

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踊る少女 ニューデリー国立博物館

上掲の画像はインダス文明のモヘンジョダロ遺跡から出土した「踊る少女(Dancing Girl)」です。

ほんとうに踊っている姿なのか筆者は少し疑わしく思うのですが、ともあれ現在見ることができるインド的美意識の最古層のものとして興味深いものです。

​とてもチャーミングな姿態を示しています。

 

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舞踊神シヴァ ロサンゼルス・カウンティ美術館

ふたつめは10世紀の南インド、チョーラ朝という王朝でつくられた「ナタラージャ」のブロンズ像です。

ナタラージャは最高神シヴァの一形態で、ナタ(नट)は踊り、ラージャ(राज)は王という意味。

踊りの王です。

​右足で無知の象徴である悪魔を踏みつけ、創造の音を象徴する太鼓を右手に持ち、破壊を象徴する炎を左手にかかげ、眉間にある第三の目で悪を滅ぼします。炎の輪は破壊と創造の循環を意味します。

​いまにも動きだしそうな躍動感があり、それが高度の調和を実現しています。

ふたつのあいだには三千年の時間差がありますが、共通した「ある感じ」をもっています。それは、

1,曲線、丸みを帯びた美しさ
2,官能、生命力の横溢


ざっくりこんなふうに言えそうです。
この「感じ」をもって、ひとつインド的美意識の特徴と考えてよいかと思います。


中世に入ると、これとはまったく異なる美的様式がやってきます。

​イスラームの侵入です。
 

インド=イスラーム美術

インド=イスラーム美術

インドでは8世紀頃からイスラーム勢力の侵攻が始まり、16世紀に成立したムガル帝国の成立によってその支配は決定的なものになりました。
 

ムガル帝国は三百年以上続き、最盛期にはインド亜大陸のほぼ全域を治めました。

数百年にわたり、中央アジアや西方ペルシアからひとと文化が流入し続けたことになります。

この間、インドとイスラームの文化が深く交わることで、様々な習合的な文化が生まれました。

 

例えば、ヒンドゥー教とイスラーム教を融合させたシク教が登場しました。言語では、北インドの言葉にペルシャ語とアラビア語が入ってウルドゥー語が出来ました。
 

美の世界でも同じことが起こります。

インドに、イスラーム美術が入ってきた。

 

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シェイフ・ロトフォッラー・モスク ウィキペディア・コモンズ

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クルアーン ウィキペディア・コモンズ

​イスラーム美術の特徴がわかる画像をふたつ掲げました。

ひとつ目はモスクのタイル、ふたつ目はクルアーン(コーラン)のアラビア文字に見られるカリグラフィです。

 

イスラーム唯一神アッラーへの絶対帰依と偶像崇拝の禁止を特徴とします。

具体的な事物を描いてはいけないので、イスラーム美術では抽象的な線の美が発達しました。空間を細かく分割した幾何学模様や、植物の蔓や葉を図案化した装飾によって、神の荘厳を示します。

​こうした特徴をもつイスラームの様式がインドの文化と融合し、インドの大地において花開いたのが、インド=イスラーム美術です。

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タージマハル ウィキペディア・コモンズ

​その代表格が建築です。

タージ・マハルはあまりにも有名。

 

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こちらは​ムガル絵画と呼ばれる細密画です。筆者がニューデリーの国立博物館で撮影しました。

輪郭と構図のクリアさにイスラームを、母子の情感にインドを感じます。

 

カタックの原型

カタックの原型

​インド=イスラーム美術の代表として上に建築と絵画をあげました。

実はカタックもまた、ムガル期に発達した習合藝術のひとつです。舞踊の世界におけるタージ・マハルや細密画のようなものが、カタックの、少なくとも原型と言えます。


冒頭にカタックの起源として寺院を廻って旅していた吟遊詩人「カタカ」について述べました。


彼らはムガル帝国時代には宮廷に召され、彼らの「語り」を披露するようになる。

当時の宮廷には、主にペルシア系と言われていますが、中央アジアや西方の舞踊家が来ていました。「カタカ」たちは彼らと交流し、影響を受けて新たな様式を生み出しました。

これがカタックの原型です。

東西の建築家や画家が交流していた時代、舞踊家もまた影響を与え合い、新しいダンスを生み出していた。これは控えめに言って、ドラマです。

カタックの最大の特徴である直立姿勢が成立したのもこの頃と推測されています。


インドの伝統舞踊で膝を伸ばした直立が基本なのはカタックだけです。直立すると、

第一に、重心が高くなり、身体が縦に伸び、直線が強調され、開放的なかたちになる。


第二に、重さが中心軸に集中するため、高速の連続回転が可能になる。

第三に、足を細かく動かせるので、複雑にして多彩なリズムが刻めるようになる。

直線の美しさ、高速回転、複雑なリズム構造。イスラームの影響を受けることで高度に発達したこれら抽象表現こそが、カタックの最大の魅力です。


もちろん、「カタカ」たち伝えてきた物語系統のダンスも素晴らしいものです。しかしそれらはインド神話に対する一定の理解がなければわかりづらい。

カタックが現在のような世界的な拡がりを獲得するにいたったゆえんは、やはり抽象舞踊の豊かさにあると言ってよいでしょう。

名の由来である「語り部」のダンスよりも、むしろ侵略者たちによってもたらされた美の形式を受け入れて発展した要素が、現代カタックの隆盛を準備したのです。


カタックの歴史を知るうえで、ムガル絵画は重要な視覚的資料となります。当時の舞踊の雰囲気が伝わる絵画を、いくつか以下に示します。

​冒頭に掲げた動画を思い出せば、なるほど原型だという感じをもっていただけるでしょう。

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ムガル宮廷の宴 ウィキペディア・コモンズ

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シヴァとパールヴァティに捧げる踊り ウィキペディア・コモンズ

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​上、みっつは筆者がニューデリーの国立博物館で撮影したもの。

イギリス支配と独立

イギリス支配と独立ー現代カタックの完成ー

ムガル帝国の全盛期を過ぎると、カタックの担い手たちは地方の藩王(ナワーブ)の庇護に移ります。

中でもアワド藩のワジド・アリー・シャー(Wajid Ali Shah 1822-1877)の治世は、カタックが宮廷藝術として大きく花開いた時期ですが、大きな流れを重視したいのでここでは立ち入りません。

​​

イギリスの侵略が進むにつれ藩の力も弱体化し、多くのカタック者は宮廷の庇護を受けられなくなりました。

※1858年に「インド統治法」が成立。

 

支配層が入れ替わるというのはたいへんなことです。

困窮したカタック者は新興の成金や地主、イギリス高官、あたらしい官僚などに新たなパトロンを求めます。しかし彼らは成熟した宮廷舞踊の価値がわからない。

そこでカタック者は表現を通俗化させ、刺激的で官能的な、「わかりやすい」ものにしなければならなかった。もっともひどい時期には、それが性的で下品なものとして、排撃の対象にさえなりました。

カタックの衰退期です。

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20世紀に入るとイギリス支配からの独立運動が盛んになります。

※ガンジーは1869年生まれ1948年没、ネルーは1889年生まれ1964年没、独立は1947年。

​​​

近代的な国民国家をつくる場合、民族の伝統が「発見」されたり「創造」されたりして、国家のアイデンティティの土台となります。

インド舞踊はこの流れのなかで「復興」を遂げることになりました。もはや軽蔑と排撃の対象などではなく、国家が守り教育すべき、文化遺産​です。

​​

表現の場は寺院や宮廷からコンサートホールや公共空間へ移行し、大衆が楽しむものになります。カタックは国立の学校で教育される伝統藝能としての地位を確立し、中産階級の子女の稽古事としても普及していきました。

​​

そのような時代に適合する現代カタックを完成させたのが、ビルジュ・マハラジ(Birju Maharaj 1938-2022)という人物です。

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ビルジュ・マハラジはダンスはもちろんのこと演奏、作詞、作曲、歌唱​までこなす万能の天才でした。

 

その万能により、これまで継承されてきた技藝を集約し、発展させ、ひとつの総合藝術としてまとめあげました。

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ひとつひとつの技術的達成、演目の質の高さに加えて、マハラジはこれを1時間とか2時間かけて、ひとりで、ふたりで、また集団で披露する、そのような形式を確立する構想力をもっていました。

 

つまり世界中どこの舞台でも公演が出来るようなパッケージ化をおこなった。

実際、マハラジとその弟子たちは世界各地で公演を成功させ、カタックを世界的に有名なインド舞踊として認知させることに成功しました。

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さらには映画の世界にも進出し、インド映画界最高のスターのひとり、マドゥリ・ディークシット(Madhuri Dixit 1967-)を指導したことにより、一般的にもひろく認知される存在となりました。

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ひとりの人間の為したこととして、これは驚嘆すべき達成と思われます。

​流派を越えてビルジュ・マハラジの影響は絶大で、彼の影響を受けていないカタックは、今日ほとんど存在しないと言っても過言ではないでしょう。​​​​​​​​​​​​

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ビルジュ・マハラジ 2012年 ウィキペディア・コモンズ

こちらは​ビルジュ・マハラジの十八番の「クジャクの舞」です。

クジャクはその壮麗さと毒に強いことなどから、インド古来より信仰の対象でした。

インド神話に登場する軍神スカンダの乗物でもあり、仏教では「孔雀明王」と神格化され、現代でも「国鳥(National Bird)」とされています。

ここでマハラジは動物の形態模写というほとんど古代的ともいうべき藝術表現を現代の舞台において成立させています。

神々しいばかりの荘厳さと、思わず笑みがもれてしまうような愛嬌。

たとえば言葉をもつ以前のダンスとはこういうものだったのかもしれない。そのような原初の感覚を呼び覚ます、至高と呼ぶにふさわしい舞いです。

こちらは愛弟子のサスワティ・セン氏(Saswati Sen 1953-)とのデュエット。

スタジオの書き割りも衣裳も宮廷風です。前節に掲げた細密画の人物たちと近いポーズがたくさん出てくるのがわかります。

ここに物語の語りも感情の表現もありません。かたちとリズムによる抽象舞踊です。

そして、インド映画史上最高の女優と称されるマドゥリ・ディークシットが出演した2002年の映画「Devdas」からのミュージカルシーン。
 
マハラジが作曲、歌唱、振付を担当しています。

マドゥリは幼少期よりカタックの修練をはじめた熟練のカタックダンサーでもあります。女優以外に生きる道はなかったであろう美貌と同時に、圧倒的なダンスの才能を誇ります。

最円熟期にあった万能の天才と、全盛期にあった不世出のスターがタッグを組んだ、奇蹟のような瞬間と言えるでしょう。


(余談ではありますが、筆者がカタックを知ったのはマドゥリのボリウッドダンスを通してでした)
 
 

さて、本節ではビルジュ・マハラジにたいする法外な讃辞を連らねましたが、ここへきて話調を一変させなければなりません。

上記のとおり、ビルジュ・マハラジは超人的に凄いひとでした。神のようと言われ、神のように崇拝されました。そのような人物は、ひとに欲望されます。

・天才から素晴らしい藝術を学びたい。
・ただ純粋に神々しい存在に近づきたい。
・近づいたぶんだけ自分が偉くなったと思いたい。
・生ける伝説、ビルジュ・マハラジの名前で権威付けして自分を宣伝したい。

「偉いひと」に近づきたい気持ちは、こうした様々な欲望が混然一体となったもので、切り離すことは出来ません。

そもそもインドの師弟関係が強固な権威主義によって維持されてきたことに加えて、世紀の大天才マハラジの異能と世界的名声が、欲望の構造をいっそう強固にしました。

マハラジを欲望する弟子、近づいたひとたちは、誰がよりマハラジを祀り上げられるか、そして誰がいちばん近くにいるかを競うようになる。ここに高度に序列化され、かつ閉鎖的なシステムが出来上がります。

そこではマハラジの威信をそこなうようなことは絶対に言えません。マハラジの威信によって全員が利益を得ているからです。

すでに読者は次になにが書かれるかを予想しておられるでしょう。なぜならこれは悲しいことに、どこにでもある、「よくあるはなし」だからです。


ビルジュ・マハラジは2022年に死去してのち、性的加害を告発されました。英語のウィキペディアでは、「インドの MeToo 運動」の項に記述があります。(こちら

死んでから言うのは卑怯である。調査も出来なければ、弁明も出来ない。そう批判することは出来るでしょう。しかし上述のとおり、言えない構造があったわけです。

従軍慰安婦も、ジャニー喜多川の件も、言えなかったからあとから言うので、それを卑怯だとなじるのは不当でしょう。

言うまでもなく、この件に関してはマハラジが第一に非難されるべきです。

と同時に、権力構造が本人の意思だけでなく、むしろ下からの欲望によってつくられることを思えば、残された弟子たちがなにごとかを言わねばならないでしょう。苦しいでしょうが、「よくあるはなし」にしないために、どうしても必要なことであろうと思います。



いわんや辺境日本に暮らし、​マハラジの磁場の外にいる筆者のようなものに、これを忌避する理由はないのです。

「伝統」と「コンテンポラリ」への分化

「伝統」と「コンテンポラリー」への分化

あるジャンルが確立されると、次なる進化はふたつの道にわかれます。

・確立された様式の内部でさらなる深化と洗練を目指すのがひとつ。
・様式を前提としたうえでその外に出て別の美を目指すのがいまひとつ。

前者をここで伝統方向、後者をコンテンポラリー方向と呼び、代表的なダンサーを数名紹介しましょう。


伝統方向の代表として、シャマ・バテ氏(Shama Bhate 1950-)を挙げることができます。

氏は親愛と尊敬をあわせて示す「タイ(Tai)」をつけた「シャマ・タイ」の愛称で親しまれています。

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シャマ・タイ 公式ホームページより

筆者の師、ヌータン・パトワードハン先生の師がシャマ・タイです。したがって筆者はシャマ・タイの孫弟子ということになります。

シャマ・タイの貢献としてよく言われるのは、革新的なまでに複雑なリズム構造を導入したことです。

​「ヒロキ、シャマ・タイのリズムはむづかしい。彼女のリズムを朗誦できたらほかのひとのは簡単だ。例えば、マハラジのはもっとシンプルだ」


そうヌータン先生に何度か言われたことがあります。実際にシャマ・タイのリズムはブロックが細かくわかれ、そのブロックのはじまりが裏拍と表拍を行ったり来たりするので、把握するのが容易ではありません。

しかしそれだけに、綺麗にリズムを再現できれば無類の楽しさを味わえます。
 
以下にひとつ、リズム表現がメインの動画を貼っておきます。
 

次にコンテンポラリー方向の代表として、クムディニ・ラキア氏(Kumudini Lakhia 1930-2025)を紹介しましょう。

あえて雑な言い方をして、インドのカタック界でいちばん偉いひとがビルジュ・マハラジとするなら、次に偉いのがクムディニ・ラキア氏になるでしょう。

両名はともに、パドマ・ヴィブーシャン(Padma Vibhushan)という、インド政府が授与する民間人に対する第二位の勲章を受章しています。なお、第一位の勲章を受章した舞踊家はいません。

つまりこれまでで国家から最も高い評価を受けたふたりが、ビルジュ・マハラジとクムディニ・ラキア氏になります。

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​クムディニ・ラキア氏 公式ホームページより

ラキア氏の功績は第一に、カタックの世界に群舞という形式を導入し、それをソロと同様の地位に押し上げたこと。第二に、伝統的な振りに現代的な解釈をほどこすことによって、コンテンポラリーダンスとの接点をつくったこと、あるいは接続したこと。

「コンテンポラリー」とは現代という意味で、歴史から自由になった(根無し草の)都会人の、零度の身体によって、いまの世界を生きるなまの感覚を表現しようというダンスです。

とはいえ、なんの身体操法の訓練もないままダンスが出来るわけがないので、多くの場合​コンテンポラリーダンスの担い手はなんらかの伝統舞踊から出発しています。

それぞれのダンサーは自身のバックグラウンドである舞踊の型を「くづす(崩す)」ことによって、動きから歴史性や意味をはぎとり、その抽象的な動きによってダンスを再構築するのです。

そしてその「くづし方」にダンサーの創造性があらわれます。

ここではラキア氏門下から出て現在活躍中のふたり、アディティ・マンガルダス(Aditi Mangaldas 1960-)とサンジュクタ・シンハ(Sanjukta Sinha 1984-)、両氏の動画を貼り付けます。

コンテンポラリーというものを言葉で説明すると上記のようにいささか意味不明なものになるのですが、動画を見ていただければ、衣装などことにそうですが、これまでに掲げたダンスより「インドインドしていない」ことが了解いただけると思います。

彼らはそのようにして土着性から離脱し、より都会的な、したがって世界性を帯びた表現を追求しているのです。

​なお、筆者はアディティ氏の公演を2025年にムンバイで、サンジュクタ氏を2024年に東京で見ましたが、いづれも素晴らしいものでした。

抽象表現が豊かであるカタックのポテンシャルが、クムディニ・ラキア氏が拓いた道から、その弟子の手によって花開いたということです。

世界的に活躍する弟子をなんにんも育てたこともまた、クムディニ・ラキア氏の偉大な功績と言えるでしょう。

この流れの先には、とうぜん原型をとどめないほどに伝統的様式美を解体したダンスがあります。

​幼少期よりカタックを学び、長じてコンテンポラリーダンスに転身し大成功を収めたのが、イギリス出身のバングラディシュ系移民2世、アクラム・カーン(Akram Khan 1974-)そのひとです。

​氏はすでにダンサーとしては引退し、主宰するアクラム・カーン・カンパニーも2027年での活動終了を発表しています。おそらくは21世紀のコンテンポラリーダンサーで最も人気があり、かつ批評的にも成功したダンサーのひとりでしょう。

​2012年のロンドンオリンピック開会式でもパフォーマンスを披露していました。

また、クムディニ・ラキア氏の振付でソロを踊ったこともありますので、この文脈の締め括りにふさわしい人物です。

これは「Namless」と題するソロ作品で、副題に「Hope Japan」とありますから、2011年の震災直後の鎮魂に関わるのかもしれません。そのあたり筆者には調べがつきませんでした。

ともあれ、簡単に筆者の解釈を述べましょう。

先に、動きから歴史性や意味をはぎとり、その抽象的な動きによってダンスを再構築する​と述べました。「Namless」はその極北とも言うべきもので、これだけを見てカタックが土台にあると推測するのは困難です。

カタックの型はほとんど完全に解体され、ここではその修練によって養われた精妙な身体感覚を用いて、カタックの型のみならず、そのさらに先、関節や筋肉の通常の動作まで脱構築しています。

​つまり、「ふつう人間なら、腕はこう動く、膝はこう曲がる」といった普遍的な身体言語をわれわれはイメージしているわけですが、そこまで解体します。そうしてぜんぶ無効化していくと、彼の身体があたかもひとつの細胞であるかのよう見えてくる。

なにかわからないが、かたち以前のかたち、エネルギーのうごめき、いのち、のようなもの。そういった名指し難い根源にまで潜っていくというのをやっている。ある種「畏れ」のような気持ちを呼び起こす、厳粛な作品と思います。
 

現在地

現在地ーインターネットとSNSの時代ー

伝統舞踊は現代という時代の挑戦を受けています。

挑戦とはなにも破壊されそうとかそういう意味ではなく、従来式のあり方はもう通用しなくなっているという意味です。

第一に、ビルジュ・マハラジのくだりで述べた権威主義と序列化、身分制のような師弟関係は限界でしょう。それは「ふつうの感覚」と呼んでいいほどに浸透した現代人のリベラルな感覚が許容しなくなっています。

第二に、インターネットとSNSが登場してしまったこと。これはある見方からすれば、これまでグルを中心とする集団の内部で慎重に守られていた知と技藝が野放図に流出していく状況と言えます。

とはいえ情報環境を過去に戻すことは不可能なのですから、この状況を前提に文化の伝承と発展を考えていくほかありません。

それをかなり思い切って、ほとんど開き直ってやってしまっているのが、パリ・チャンドラ氏(Pali Chandr 1967-)です。

チャンドラ氏は上掲のような教育動画をネット空間に厖大にあげており、YouTubeのチャンネル登録者は本稿執筆時点で35万人に達しています。

ここにあるのは、伝統舞踊の継承はネットと場所さえあればよいという思想です。その是非は脇に置いて、重要なのはそういう状況にすでになっているということです。それは止めようがありません。

チャンドラ氏ほど網羅的にすべてを放出しているひとはほかにいませんが、この種の動画はいくらでもあります。マハラジの指導の動画だってふつうに見られます。

つまり、ただ練習して好きに踊るだけなら別に先生につかなくてもよい環境が出現しました。事実、筆者はヌータン先生に弟子入りする前の2年半ほど、ひとりでいろいろな動画を見て独学していました。

ひとことで言うと、伝統藝能の「民主化」が起こっている。

こういう状況で、例えば「ずっと一人の先生から学ばなくてはいけない」とか「直接習ったものでないと練習してはいけない」とか言っても仕方ないでしょう。

とはいえ質の担保には「権威」が必要であることは自明ですし、学びの欲望を起動させるためには「師」が必要であることも自明です。

​すなわち、リベラルな思想と情報環境によってもたらされた民主化を前提にして、いかに権威をつくり、師弟関係を機能させるかが、すべての指導者と学習者に問われている。

これがカタックの現在地です。

日本のカタック史

日本のカタック史

ここからは第二部となります。

第一部ではインドにおけるカタックの歴史を起源から現代まで通覧しました。第二部ではそれを日本人による受容の歴史と接続してみたいと思います。

日本においてカタックは鑑賞対象としても習い事としてもまだまだマイナーなものですが、少数の熱意あるひとびとが学び、紹介し、輸入してきた歴史があります。その時間はすでに半世紀を超えています。

半世紀というのは決して短い時間ではないでしょう。カタックの「定着」を考える場合に、たとえ簡単なものであっても、言葉によって歴史として整理する作業が必要だというのが、筆者の考えです。

 

というのも、そのような歴史化によって「日本のカタック史」としての全体感が生まれ、それを基盤として個々の実践が世代を越えて関係づけられ、文化的蓄積として共有されていくと考えるからです。

 

とはいえ、それは非常に小規模な運動であり、業界でもあります。文書化された資料はほとんど存在しません。以下に記す内容は、筆者の限られた社交に基づく見聞と、各舞踊家のホームページ等の情報から整理したにすぎないことを、あらかじめお断りしておきます。

それゆえ、事実に関して多少の誤認が含まれる可能性も否定できません。しかし、そもそも情報そのものが乏しい状況(たとえば、だれひとり生年を公表していません)、およびこうした試み自体がおそらく初めてであることを踏まえ、ご容赦いただければと思います。

なお、記述の煩雑を避けるため、また日本人によるカタック受容の歴史という観点から、教室を開いていない舞踊家、および在日インド人の活動については割愛します。

(いつか稿を改めるなら、在日インド人の活動は必ず入れねばならないでしょう)


では、始めましょう。

以下、簡潔を期すため、しばし「だ」「である」調で記します。

 

日本のカタック史は、その発展段階に応じておおきく三期に分けることができる。

 

黎明期(1970年代〜1980年代前半)

日本にカタックが初めて紹介され、その基礎が築かれ始めた時期。パイオニアの登場と初期の普及活動が行われた。いわばこの期間が「種蒔き」であった。

 

成長期(1980年代後半〜1990年代)

黎明期に種が蒔かれた日本のカタックが、各舞踊家たちによる国内での継続的な学習、またインドでの長期的な修練を通じて、その技術と理解を深めた時期。表面に登場する舞踊家は多くないが、開花のときを密かに準備していた時間。

 

開花期(21世紀〜現在)

インドで訓練を積んだ日本人舞踊家たちが続々と帰国し、国内で本格的に教室を開設・活動を活発化させ、日本のカタックが多様な形で拡がりはじめた時期。前二期の土台のうえに、複数の教室が全国で運営されるようになった。

 

上記おおきな枠組を念頭に、以下すでに世を去ったパイオニアの功績と、現在活動中の舞踊家の来歴を略述する。

 

日本におけるカタック普及のパイオニアは、ヤクシニィ矢沢氏(2019年没)である。​​

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ヤクシニィ矢沢氏 公式ホームページより

ヤクシニィ矢沢氏はビルジュ・マハラジの高弟であるヴィジェイ・シャンカル氏(Vijai Shankar 1948-2019)に師事し、インドで複数の舞台に立ち高い評価を受けた。

 

70年代より日本での普及を始め、シャンカル氏を何度も東京に招聘するなどして、弟子たちに本場のカタックに触れる機会をつくった。

 

同氏の門下からは複数の有力な舞踊家が育ち、以下の4名がその系列に連なる。

1,中島さち氏はヤクシニィ矢沢氏の最初期の弟子、1971年からカタックを始めた。1980年に渡印。期間は不明だが、通算すると長期にわたると考えられる。研鑽ののち、2004年にダンスユニット「あぷさら」を設立し、東京で教室を主宰。

 

2,前田あつこ氏は当時6歳であった1981年に入門。2004年に渡印し、翌年よりクムディニ・ラキア師に師事。2007年に帰国後、東京にて「カダムジャパン」を設立。

 

3,クンジュビハアリ氏は1983年に入門し、1993年から2003年までインドに滞在。ビルジュ・マハラジに師事し、帰国後に「カタックマンディール」を立ち上げ、現在は静岡で活動。

 

4,堤菜穂氏は1998年に入門、中島さち氏に師事。上記「あぷさら」の初期メンバーとして活動。2015年には渡印し、クムディニ・ラキア氏に師事。2017年の帰国後、東京で「Nritya Angan(ヌリッティヤ・アンガン)」を設立。

 

そして、ヤクシニィ矢沢門下とは別の系統から登場した舞踊家が以下の2名。ふたりはそれぞれ独自の経緯からインドでカタックを学び、帰国後に活動を開始した。

 

1,スワスティカ・ビンドゥ氏は、大阪芸術大学彫刻科卒業。学生時代、渡印時にカタックを知り、彫刻から舞踊に転身した。現地滞在は多年にわたり、ビルジュ・マハラジを含む複数のダンサーに師事。1998年より奈良で活動を開始し、2014年にスタジオ「アンジュリー」を設立。

 

2,佐藤雅子氏は、国立長岡技術科学大学大学院材料開発工学専攻修了。バレエ、ジャズ、コンテンポラリー、創作舞踊などを経て、フラメンコの源流を探して渡印。1995年から2005年まで滞在し、ビルジュ・マハラジに師事。帰国後、教室「MIYABIカタックダンスアカデミー」を設立。

 

 

2025年7月現在、日本で稼働しているカタック教室をまとめると、次のむっつとなる。
 
(名称にホームページへのリンクを付した)

あぷさら

カダムジャパン

カタックマンディール

Nritya Angan

アンジュリー

MIYABIカタックダンスアカデミー

 

地域では東京によっつ、静岡と奈良にそれぞれひとつ存在していることになる。

以下、ふたたび「です」「ます」調に戻し、僭越ながら評価と課題を述べます。

 

こうして時代を区分し、各舞踊家の系統をまとめてみると、パイオニアであるヤクシニィ矢沢氏の功績のおおきさが際立ちます。

 

自身の表現活動に加えて、のちに日本で教室を開くことになる有力な舞踊家を複数育てた実績は正しく顕揚されるべきでしょう。日本のカタック史における最大の功労者は、間違いなくヤクシニィ矢沢氏です。

 

また、同氏の門下とはまったく異なる道から、ひとりインドに長期滞在し、カタックを学び、日本での地位を築いたスワスティカ・ビンドゥ、佐藤雅子両氏の情熱と努力もまた特筆に値します。

 

それは日本のカタック界に多様性を与え、また後進を勇気づけるものであるからです。

 

このように情熱と才能ある複数のカタック舞踊家が活動している現在の状況は、開花期と呼ぶにふさわしいでしょう。

 

特記すべきは、稼働中のむっつの教室の主宰者全員が、第一部で紹介したビルジュ・マハラジとクムディニ・ラキア氏というインドカタック界の二大巨頭から直接指導を受けていることです。

 

それは実質において最高峰のカタックを日本に輸入していることを意味し、また権威付けという面でも、これ以上ない肩書きをもっていることになります。

 

あるいは現在は、日本のカタック史の黄金時代なのかもしれません。しかし懸念すべきは、この黄金時代があっさり終わってしまう可能性もゼロではないことです。

 

というのは、彼らの年齢はおそらく40代の終わりから70代に分布しており、若い世代が出て来ていないからです。準備中の方がおられるのかも知れませんが、少なくとも表面に見えるかたちでは、まだです。

 

この点について若干の考察を加えると、おおきな時代の趨勢として、日本という国の没落をあげてもよいでしょう。

 

90年代初頭にバブルが弾けたとはいえ、彼らが力を養っていた時期はまだ日本が経済大国で、いまよりは未来に希望を持てていた。またインドはそこまで発展しておらず、日本円の力が強かった。すなわち少なくとも今よりは「挑戦」しやすい環境と空気があった。

 

ところが2010年代からこちら、日本は急速に貧しくなり、若者の数もどんどん減っている。日本が停滞しているあいだにも外国は成長を続け、日本円の力が弱くなり、海外旅行は一部の階層の贅沢になりつつある。

超少子高齢化と経済力の低下(中産階級の没落)により、さまざまな文化事業の存続がむづかしい時代に入っています。美術館の閉鎖やオーケストラの危機などはすでによく聞くはなしです。

どこもかしこも余裕がなく、失敗したくない、損したくないという気分が社会を蓋っています。

あまり知られていない、経済的にペイする可能性も低い異国の伝統舞踊に、貴重な人生資源を投下する「愚かさ」を後押しする余裕は、もはやこの国にはありません。

 

先達があまりに立派すぎることを考えることもできるでしょう。

 

全員が若い時期からカタックを始め、インドに長期滞在の経験があり、マハラジかラキア氏の弟子であるというのは、たいへんなことです。またこの文化資本の蓄積は、おそらくは彼らの多くが、資産家といわぬまでも経済的に余裕のある層であることを推測させます。

 

もちろん彼らにはいささかの非もありませんが、全員がこうした凄い経歴であるため、それが実質的に基準になってしまっている。すると次の世代はどうしようと「見劣り」してしまう。若いひとが、「先生のように凄くないから」と思って萎縮することがないとは言い切れないでしょう。

 

このように考えると、現在の充実した日本のカタック界は、ひょっとすると様々な条件が偶然重なった結果生まれた一種の例外状態なのかもしれません。

 

その条件が消滅したときにどのような成功モデルをつくることができるか。余力のある開花期に取り組みべき課題と言えるでしょう。

江戸川カタック社の方向性

江戸川カタック社の方向性

さて、上記した日本のカタック史を踏まえたうえで、不肖筆者が主宰するいちばん新しいカタック教室「江戸川カタック社」の方向性を述べ、位置付けをおこないたいと思います。

 

江戸川カタック社は、筆者が2025年7月に発足させた舞踊教室です。

 

それは先人の仕事に敬意を表しながら、同時に彼らとは異なるモデルを提示することによって、日本のカタック史に貢献しようとするものです。

 

異なるモデルの特徴を分解すると、「経歴 」「語り」「カリキュラム制」に関わります。

以下、順に述べます。

 

1,経歴

主宰者のわたし林広貴は、30歳になる数ヵ月前にカタックをはじめ、インドに長期滞在の経験もなく、師は国家から表彰されておらず、経済的にも豊かではない。いま活躍中の先生方とくらべると、あらゆる面で「見劣り」する人物です。

 

しかし文化の厚みというものは、「この程度」のひとがあちこちで活動していることによって支えられるものです。社会人野球や草野球を楽しんでいるひとがたくさんいることが、野球文化の厚みをつくっています。

また上に見たとおり、現在のカタック界は例外状態にある可能性が高く、次世代が登場しづらい構造になっています。ハードルを下げないことには、開花期のあとに尻すぼみということになってしまうかもしれません。わたしのような人間が教室を開くことは、その点でも意義があるはずです。

 

2,語り

ダンスを始めたのが遅いということは、裏を返せばそれ以外のことをやってきたということです。

 

筆者はカタックに集中する以前には、本を読み、考え、書くということに力を注いで来ました。そのためダンス漬けの人生を送ってこられた方よりは、調べて語る力は、いくぶん優れるはずです。

 

文化が定着するには「語り」が必要です。

 

カタックは Kathakar =語り部のダンスです。神話と伝説を語った古代インドのカタカのひそみにならい、江戸川カタック社はカタックそのものを語ろうと思います。その最初の仕事が本稿、「カタックについて」です。

 

カタックの歴史を起源から現代まで通覧し、次いで日本のカタックダンサーたちの来歴をまとめ、接続しました。歴史的経緯を踏まえた「全体」が見えるはずです。さまざまな面において、日本語によるカタックの語りをおおきく更新するものと、ひそかに自負しています。

 

江戸川カタック社はこのような、「カタックを語ること」そのこと自体を、舞踊活動の重要な一環として位置づけます。

 

 

3,カリキュラム制

第一部の最後に、現代カタックが「伝統」と「コンテンポラリー」に分化しつつあることを述べました。そこで筆者の師が「伝統」方向の代表者であるシャマ・タイの弟子であることにも触れました。

 

ここからわかるように、江戸川カタック社もまた「伝統」方向のカタックを追求します。

 

それは筆者の好みがそもそも「個人の独創」よりも「型の洗練」にあり、だからそういう方向性の先生に弟子入りしたというのもありますが、カタックの定着を考えるうえで、「型の平等性」ということがおおきな意味をもつと思うのです。

 

ここで「型」という言葉を、単に様式美とそれを身体化するための基礎練習という意味ではなく、すでに評価の定まった演目や振付を含むものとして考えてみましょう。カタックの歴史にはそうした「型」の豊富な蓄積があり、それを学ぶだけでも十分に価値があります。

 

必ずしも個人の才能や創造性を発揮して、「自分の作品」をつくる必要はない。それが認められているのが伝統藝能の世界です。才能に依存しないということです。

 

江戸川カタック社はこの「型の平等性」に居直ることによって、継承のためのカリキュラム制を確立しようと考えます。

 

筆者がインドの師より学んだ「型」のうち、日本人が好むもの、適したものを選び出し、再構築するかたちでカリキュラムを作成します。学びの始めの段階から、「今なにをしていて、それが全体のどこに位置づけられるのか」が分かるようにする。

 

クリエイティビティやオリジナリティを思い切って捨てる代わりに、次世代が育ちやすいシステムをつくろうというのです。そのようなシステムが、文化の普及と定着には不可欠と考えるからです。

 

おそらくはそれが、輝ける黄金世代の次の世代に課された仕事であるでしょう。

日本人が学ぶ意義

日本人が学ぶ意義

最後に、日本人がカタックを学ぶ意義、あるいはもっと簡単に、「どういう役に立つか」を記しておきます。思いつくままにやっつ挙げました。

 

1,踊る喜び

ジャズミュージシャンの菊地成孔氏がラジオで、「日本人は世界一踊らない民族だ」と言っていました。その通りだと思います。ちょっと外国へ行って驚くのは、みんなよく踊ることです。

 

踊る喜びを知らないひとが日本には多い。シャイだからかもしれません。シャイなわたしたちには「型」がある伝統舞踊が向いている。カタックをやるとよいでしょう。

 

2,学ぶ喜び

論語の冒頭に「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや」とあります。人生の喜びは学びにあるというのです。

カタックという異国の伝統舞踊を学ぶことは、まったく未知の概念を理解し、それと身体をつなげていくことです。これは高度に知的な営みであり、人生の支えになるほどの深い喜びを与えてくれる、少なくとも可能性をもつものです。

 

3,健康法

カタックはからだにやさしいダンスです。並外れた筋力や柔軟性は必要ありません。中腰にならない、膝を曲げることがほとんどない、ジャンプもしない、衝突もない。したがって足腰への負担が極めて少ないです。カタックで怪我をしたひとを筆者は見たことがありません。

それでいて運動量は豊富です。足踏みする基本動作は心肺機能、脚力及び腹筋背筋を効果的に鍛えます。手と腕を四方に伸ばす所作は背中から肩の線をととのえます。健康法として、老若男女だれでも実践できるダンスです。

 

 

4,美意識の涵養

伝統舞踊が目指すものは美しさです。美しいかたちをからだでつくります。その訓練を通じて、美しいものが大事だという価値観、美しいものを感じる力、美しいとはなにかを考える批評眼を養います。

 

それは人心の荒廃がすすみ殺伐たる気性のはやる現代において、あるいはもっとも大切な、社会の歯止めであるような教育活動かもしれません。カタックを学ぶことは、自分自身への情操教育です。

 

 

5,孤独対策

これは習い事全般の有用性になりますが、そこまで重くない、ゆるい人間関係を維持できる「場」に所属していることは、今後さらに重要度を増していくと考えられます。

 

日本の世帯構成はすでに単身世帯が最大の割合となりました。結婚するひとも子供をもつひとも減っていますから、単身世帯はこれからも増え続ける。きわめて手軽な孤独対策として、なにか習い事をするのはよいことと思います。

 

 

6,「日本」の外へ

日本は極めて同質性が高い社会です。同調圧力が強く、また同調圧力に弱い。同じであること=和が最大の価値です。ひとが自分と同じであること、自分がひとと同じであることが、心理的安定を支えています。

 

この不安症と均質への情熱が日本をさまざまな面で世界一暮らしやすい国にしている反面、わたしたちは耐えがたい生きづらさを感じている。ときどき息抜きしないと死んでしまいます。

 

カタックの「型」は数千年におよぶ美的彫琢の結晶です。その「型」に自分を一体化させることによって、インドからはるか西方ペルシアまで、時間を超えた旅に出ることができます。カタックで、「日本」から脱出しましょう。

 

 

7,霊的成熟

日本人がこうも不安症なのは信仰をもたないことが理由のひとつと思います。宗教の忌避です。なぜ忌避するかというと、超越的なものを超越性のままに把握するのが不得手だからです。

だから「いまここ」の空気に流されやすい。自意識が「いまここ」に居ついているので孤立や失敗を極端におそれる。それがわたしたちを小心にし、意地悪にし、幸福度を下げています。

 

宗教嫌悪は消えそうにないですが、特定の宗教を信じるのとは別の仕方で、超越的なものを信じる感性、広い意味での信仰心をもつというあり方が考えられると思います。

 

カタックをそのような霊的成熟への実践として捉えることが可能です。なぜならカタックのかたちとリズムは霊性への希求から生まれたものであり、それ自身が聖性の顕現であるからです。また仏教に馴染んだ日本人にとって、インドの宗教や神話は親しみやすいものです。

 

 

8,アジアへの回帰

日本は史上長く、中国を中心とする華夷秩序の中に自らを位置づけてきました。欧米列強が世界を支配し始めた近代に至ってこれがゆらぎ、「アジア主義」を掲げながらも、日本は帝国主義へと変質しました。

 

敗戦後は米国への従属を国是としてきましたが、現在、欧米中心の近代秩序は揺らぎ、その限界が露呈しています。

 

日本はこれから長い時間をかけて、アメリカからの離脱とアジアへの回帰を模索していくことになるでしょう。それは政治の領域です。しかし政治を動かすのはひとの気持ちです。

 

カタックを学ぶことは、インド世界について学ぶこと。またアラビアから北は中国、南はインドネシアにまで拡がったイスラーム世界を学ぶことです。とするとカタックを学ぶことを、これから登場すべきアジア主義復興の一環と位置付けることもできるでしょう。

 

 

以上、江戸川カタック社は、個人の健康法から文明論的な位置付けにいたるまで、カタックの多面的な価値と可能性を深く理解し、ひとりひとりの喜びと充実のために、それが社会的意義につながるような仕方で、活動をおこなっていきたいと思います。

 

 2025年7月26日 記

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