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検証「カタックはフラメンコの起源である」か?

本記事は、2025年6月7日に主宰者がブログ「手探り、手作り」に発表したものを、ホームページ作成およびコンテンツ移行にともない、表記の一部を修正し再掲したものです。

はじめに

カタックというダンスがあります。

 

北インドの伝統舞踊です。インドではすごく人気があり、また世界でも学ぶひとが増えているダンスです。日本では現在全国で教室が六つか七つ。総人口はあるいは70人とか80人かと思う。完全にわたしの感覚ですが。

 

わたしはカタックを学ぶ者で、教室を開くべく最近ワークショップをやり出しただけで、実績はありません。

 

自分の名前で活動し始めると、業界を知るために、また差別化のために、他の方がどういう活動をしているかが気になります。

そこでわたしは検索で出てくる限りの日本のカタックダンサーの発信を見てみました。気づいたのは、「みんな」と言っていい割合で同型の宣伝文句を、あるひとはホームページの頭に、あるひとはイベントの告知に、使っておられる。

 

  • カタックはフラメンコの源流と言われています。

  • カタックはフラメンコのルーツであるという説もあります。

  • 一説によれば、カタックはジプシーによってスペインに伝えられフラメンコの起源となったそうです。

     

という「説」。わたしによれば、これは明らかな偽史で、しかもけっこう問題の多い偽史なのです。学術的に根拠がないのに加えて、倫理的な問題もはらんでいる。

こういう「説」を利用している方があるのは知っていましたが、まさかこれほど多いとは想像していませんでした。

 

ひとりふたりなら「なるほどなあ」で終わりですが、こうも「みんな」が頻用し、業界の外にまでひろがっているのを見ると、これは誰かが言わなければダメなのではと思い、筆を取った次第です。

前述の通り、わたしはまだ教室さえ開けておらず、まるで影響力のない人間なので、この検証記事はいかなる反応も起こさないかもしれません。

(偽史の拡散を止められれば、それは小さいながら実績と呼べるのでは・・・?)

 

が、ひとつには「わたしは偽史と思ってます」と表明しておきたい気持ちがあります。また、口に出さないけれど内心疑問に思っているひとのためもあります。

 

いちばんは、次の世代に対して「この説は受け継いではいけませんよ」と伝えたい。フラメンコの知名度を利用できる便利なフレーズですが、問題の多い説なので、長期的な視座に立てば業界全体にとってよくないと、わたしは考えます。

 

言うまでもないことですが、わたしはこれまで、そして現在活動されている日本のカタックダンサーの方々に対して敬意を抱いています。これほど知名度がなく経済的にペイしないダンスの普及のために活動を続けるのは、掛け値なしに凄いことと思います。

 

ただ、ジプシーがカタックをスペインに持っていってそれがフラメンコの源流になったというのは、どうでしょうか。そこを批判させていただく次第です。

 

特定の誰かを批判するのではなく、この「説」と、それが業界内でとくに疑いなく流布されている状況を、いわば解剖するのが目的であること、読めばご理解いただけると信じます。

 

なお、研究者の文章を読んでいただきたいという思いから、後半は引用が長くなること、はじめにお伝えしておきます。お急ぎの方は引用者がほどこした太線部分だけ追ってください。

それではどうぞ。

はじめに
源頼朝が海を

源義経が海を渡ってチンギス・ハンになった

カタックの歴史に関するある「説」を検証する。

 

  • カタックはフラメンコの源流と言われています。

  • カタックはフラメンコのルーツであるという説もあります。

  • 一説によれば、カタックはジプシーによってスペインに伝えられフラメンコの起源となったそうです。

     

という「説」である。日本のカタックダンサーが宣伝文句として頻用する。「みんな」(と言っていい割合で)使っている。

 

きまって「一説によれば」「という説もあります」「とも言われています」と伝聞態で言うのが特徴である。だからひとりひとりが強く主張しているわけではない。

ところがそのひとりひとりは「先生」であるし、「先生」が「みんな」この説を流布するので、なにも知らないそとのひとは「なるほどそうなのか」と思う。

エックス(旧ツイッター)で、「フラメンコ カタック」「カタック フラメンコ」などで検索すると、どうやらフラメンコ関係者、音楽家や舞踊愛好家、ひいては編集者や評論家といった知的な職業のひとにまでこの「説」が受け入れられているようだ。

 

カタックがフラメンコの起源であるという「説」は英語圏でも見かけるものだ。おそらくそれを誰かが輸入し、フラメンコとジプシーの知名度を利用でき、かつエキゾチシズムを喚起できる点で便利なので、ひろがったものと思われる。

 

「Flamenco Kathak」と検索すると、「いろいろ似てる点がある」とか「起源説には議論があるが、共通点があるのは間違いない」みたいなニュアンスの記事が出てくるが、根拠を示して「だから起源である」と主張するものは、わたしの確認した限りだと見当らない。

 

また後に紹介するような専門書には、この「説」は出てこない。

 

つまりどこまでいっても「一説によれば」「という説もある」式の語りでしかない。そのような、真剣な議論にも上がらないような説が、特殊日本的な事情によって、小さな日本のカタック界で膨張してしまったと考えられる。

 

伝聞態を用いているにしても、その「説」を選択することに主体性と責任はあるわけだし、そもそも疑わしく思っているなら紹介するはずがない。

 

疑わしく思いながらも宣伝のために仕方なく使っているなら行間に「苦渋」が見えるはずだが、わたしには読み取れない。

 

そろって伝聞態で距離をとりながら、現実的効果としては、この「説」を業界全体で推す結果となっている。都市伝説や陰謀論と同じ構造で、「~らしい」や「~から聞いた」が、集団内でぐるぐる廻って大きくなる。みんなが言ってるとなんだか真実味を帯びてくる。

 

わたしが初めてこの「説」を聞いたときに思ったのは、「源義経が海を渡ってチンギス・ハンになったという説と同じだ。どこにでもこういう話はあるのだな」ということ。

 

オモシロ偽史です。漢字伝来前に神代文字があったとか、日本人とユダヤ人が同一の祖先であるとか、エルヴィス・プレスリーは生きているとか、ピラミッドは宇宙人がつくったとかそういう話。面白いと思う。

 

が、これらは人間の想像力と欲望のあり方を楽しむ態度で臨むべきであって、真顔で言うべきものではない。偽史はそれが偽史であると判断できるリテラシーがある土壌において流布すべきもので、それがないならきちんと偽史であると言わねばならない。

 

カタックは知名度がなく、そんな土壌などありはしないのだから、まづ偽史をひろめるべきではないし、ひろまってしまったら偽史であることを周知しないといけない。

 

今回たまたまその役がわたしに廻ってきたのである。

いつ直立したか

カタックはいつ直立したか

「源義経=チンギス・ハン説」にならい、カタックがフラメンコの起源であるとする説を、以下「カタック=フラメンコ(の)起源説」と称し、いくつかの研究を紹介することで、それが「源義経=チンギス・ハン説」のたぐいの偽史であると主張する。

 

「カタック=フラメンコ(の)起源説」の構造は次のようなものである。

 

  1. カタックとフラメンコは似ている。

  2. フラメンコはジプシーがつくった。

  3. ジプシーはインドから来た。

  4. ということはカタックがフラメンコの起源である。

     

まづ前提となる1の「カタックとフラメンコは似ている」について。

 

これは直立姿勢が基本で、足を打楽器のように使い、細かいリズムを刻むことを指す。確かに共通点であり、そのためにふたつのダンスはコラボレーションがしやすくなっている。

 

ほかに「手拍子を打つ」とか「即興がある」とか「生演奏だ」とかいうのだけれど、それは共通点がひとつだと物足りないから無理して探しているだけで、だいたいどんなダンスにでもある要素である。

決定的なのは細かい足踏み=フットワーク、この一点。これは両者に共通する特徴だ。

 

だが、いま見えている姿が似ているから片方が他方の起源であるとは言えない。うどんとスパゲティは似ているが、そこからうどんがスパゲティの起源であると類推することはできない。

 

そこで2と3のジプシー物語が持ち出される。

ジプシーによる伝播説が一定の説得力をもつためには、少なくとも 、

  1. ジプシーがインドを出発したのはいつと想定しているか。

  2. そのときジプシーはカタックのどの要素を持ち出したか。

を提示しなければならないだろう。カタックがずっと同じカタックであったわけがなく、歴史上のどこかの時点のカタックを当時のジプシーが持ち出したという説なのだから、いつなにを伝えたのかを示さなければ意味をなさない。

 

けれどこの大事な要件を誰も示さない。なのでわたしが「通説」に従って考えてみましょう。

ポーランド現代史/ジプシー史を専門とする水谷驍氏の「ジプシー 歴史・社会・文化」及び「ジプシー史再考」を参考に、ジプシーの移動をまとめてみる。

ジプシーはかつてインドにいた。インドのどこであったかはコンセンサスがないが、とにかくインドにいた。彼らは紀元1000年前後にインドを出た。

 

ペルシアを通過し、トルコを経て、11世紀中にバルカン半島に到着、15世紀初頭にはヨーロッパに中央部にまで達している。1613年にはセルバンテスの「ジプシー娘」が刊行されているから、そのころにはスペインにも定着していた。

さて、ではこの年表にカタックの歴史を重ねてみるとどうなるか。カタックの歴史をポイントを絞って述べると次のようになる。

  1. 紀元前から「カタカ」と呼ばれる語り部たちが寺院を中心に活動していた。

  2. ムガル帝国時代にカタカが宮廷に入り、中央アジア・ペルシア方面の舞踊と融合し、現代のカタックに発展する要素が出そろった。

  3. 19世紀のイギリス帝国支配時代には抑圧され、一時期下火になった。

  4. 20世紀初頭頃より、ヒンドゥー教の復興と独立運動の興隆のなかで、舞踊界でも一種のルネサンスが起こり、バラタナティヤムやオリッシー等と同様に、「伝統藝能」としての形式を整えた。

1の紀元前のはなしは古すぎて実態はよくわからない。実証研究がなされ、確からしい推測が可能となるのは2の中世以降である。

 

インドを代表する古典舞踊研究家の Kapila Vatsyayan 氏は著書「INDIAN CLASSICAL DANCE」の中で、ムガル帝国期以前の北インドのダンスについて次のように述べる。

かつて北インドで広く行われていたダンスは、バラタナティヤムやオリッシーと似たものだったと推測できる。少なくとも、残された造形物はそのような結論にわれわれを導く。

そしてムガル絵画の経時的な観察から、17世紀から18世紀にかけてダンサーの膝が伸び、直立姿勢が定着したと推測する。

17世紀以後、あるいは18世紀に入ってから、二つの太鼓を備えたタブラの描写が登場する。(・・・)少しづつ、ardhamandaliの姿勢(訳註:膝を曲げた姿勢)から離脱し、踊り手たちは真っ直ぐ立った姿を見せ始める。

 

この研究はかなりの強度をもっているとわたしは思います。筋が通っていて説得力がある。直立したことで、足を速く動くかせるようになり、また高速かつ連続のターンが可能となった。

 

次にムガル期のカタックの変貌について、ダンサーで研究者でもある Rachna Ramya 氏の「Kathak  The Dance of Storytellers」から引用する。

 

ムガル期にカタックは進取の気性を示した。それまでの伝統に対する誠実さを保持しながら、ムガル藝術から新しいダンス言語と様式を取り入れたのである。
 
この時代に、カタックダンスの主要な要素と特徴が発達した。フットワーク、スピン、複雑なリズム構成、そして直線的な動き。これらがやがてカタックのトレードマークとなった。

 

現在までの研究を素直に参照して理解できるのは、カタックがカタックらしさを備えたのはやっと17世紀18世紀ということである。つまり、「カタック=フラメンコ(の)起源説」の前提である、フラメンコと共通の要素をカタックが備えるのが、17世紀18世紀である。

 

ジプシーは紀元1000年頃にインドを出て、15世紀にはスペインに到着している。カタックはフラメンコの起源になり得ない。義経とチンギス・ハンどころではない、数百年の時間差がある。

 

かりに1000年頃にカタックが直立姿勢と複雑なリズム構造を有していたとして、それが数百年かけてペルシア→トルコ→バルカン半島→ヨーロッパと通過するあいだそのまま保持され、フラメンコの源流になるというのは、さすがにジプシーに無理をさせすぎだ。

 

文化の伝播と発達がそんな単線的な経過をたどるとは到底考えられません

ジプシーとは誰か

ジプシーとは誰か

すでに結論は出ていますが、ジプシー研究とフラメンコ研究も紹介しておきます。

 

先に紹介した水谷驍氏は両著作の中で、氏は1970年代以降のジプシー研究の進展により、上に「通説」として紹介した「インド起源説」そのものが問い直されていることを繰り返し述べている。

 

そうして日本においてその成果がほとんど紹介されず、相も変わらぬ浪漫主義的ジプシー像が流通していることを憂いてをられます。

 

ポイントはふたつ。

 

ジプシーのインド起源説自体が根拠薄弱で、確定的な事実とはとても言えないこと。そしてジプシーは身体的特徴や言語や文化を同じくする「民族」ではなく、ときどきにさまざまな人間集団を指した「総称的代名詞」であること。

 

2018年刊行の「ジプシー史再考」終章の冒頭でこの二点がまとめられているので、長くなるが引用します。

 

たびたび強調してきたとおり、一七八三年に出たドイツの歴史学者グレルマンの『ジプシー論』は、現在にいたるまでヨーロッパはもとより日本を含む全世界のジプシー研究に巨大な影響を及ぼしてきた。

その視点と論理は、ジプシーについて書かれた最近の諸著作においてさえ、部分的にせよ、また自覚されていないにせよ、繰り返し現れる。じつにグレルマンの著者は、その後の二世紀以上のジプシー研究の基調を定めた、つまり、ジプシ研究の確固浮動のパラダイムとなったのである。

その結果、後世のジプシー研究は、一九七〇年代にいたるまで、(一部では今日にいたるまで)、グレルマンが描いたとおりに人間集団ーーインドを起源として身体的特徴、言語・文化、民族誌などを同じくする放浪の民族というーーが実在することを前提として展開されることになった。

第四章で詳述したように、じつはこれはグレルマンの創造と想像の産物であって、実際にはそのような「民族」は存在しなかった。
 
それにもかかわらず後世は、グレルマンのパラダイムのなかで、そこに描かれたジプシー像を疑問の余地のない自明の基準として、歴史的、地理的に類似の人間集団を探求し、「正史」を綴ってきた。その際、その時々にその地でジプシーとされた人間集団の実体が立ち入って検討されることはなかった。

このような「正史」を見直そうとすれば、まずは「インド起源」にたいする拘泥を捨てなければならない。 そのおもな理由は二つある。
 
ひとつは、「正史」のいう「インド起源」とは、科学的な結論というよりもほとんど「御題目」にすぎず、その具体的な内容について今日にいたるも議論百出で、この意味でここには厳密な検討に値する「定説」が存在しないことである。

すべての論者が「インド起源」「インド起源」と繰り返すが、いうところの「原郷」が広大無辺かつ複雑多様なインド亜大陸のどこであるかという「インド起源説」のまさに核心部分において議論はさまざまに分かれている。

それが暑熱の砂漠地帯であろうと、緑に覆われた大河の流域であろうと、多様な人びとの住む大都市であろうと、「インド」でさえあればどこでもよいということであれば、そもそも「原郷」を探求することの意味はどこにあるのか。

インド起源説に拘泥してはならないもうひとつの理由は、そしてこちらのほうが本質的な問題なのだが、実際にジプシーとされる集団を観察し、あるいは諸文献をひも解いてみればわかるとおり、「ジプシー」とはさまざまな出自を窺わせるきわめて多様な人間集団であって、その全体にあてはまる一つの地理的原郷を探し求める試みはそもそも的外れであると考えられたことである。

古来のユーラシア大陸における人びとの往来を考えれば、ヨーロッパのある人間集団の祖先の一部がインドから来たということは大いにありうる話である。
 
また、ある集団のDNAにインド固有の要素なるものが発見されたという報告もうなずけよう。 しかし、そのような「事実」はあくまでその人間集団に限っての話であって、「ジプシー」の原郷がインドであるという議論とはまったく次元を異にする。

「ジプシー」の原郷を論じようというのであれば、まずは、それが多様なさまざまな人間集団ではなく、「ひとつの民族」であることが証明されなければならないのだが、グレルマン以来の「インド起源論」を検討してみれば、それがまさにこの出発点のところですでにつまずいていたころが明らかとなる。 219-211頁

 

これでは現状ジプシーについて確定的なことはなにも言えません。いろいろな人間集団をひっくりめて「ジプシー」と呼んできたとすれば、もしカタックとの関係を言うなら、まづインドでカタックをやっていた集団を識別し、名前をつけ、彼らの動きを追わねばならない。

 

そんなことができる日が来るでしょうか。

ジプシーの役割

フラメンコにおけるジプシーの役割

わたしはフラメンコについてはまるで関心を持たずに来たので、今回はじめて以下に紹介する3冊を読みました。どれも立派な本で、さすが世界的に人気のある舞踊だけに研究の蓄積も凄いと思いました。

 

1983年刊行、浜田滋郎氏の「フラメンコの歴史」は、水谷驍氏が「正史」と呼ぶところの古いジプシー観に立つもので、そこは時代の限界がありますが、それが気にならないほど迫力のある本です。


浜田氏はフラメンコの原型がジプシーによってもたらされたものではないことを明言しています。

 
 
こうして、十六~十八世紀のあいだにジプシーはアンダルシアの町や村に定着し、ここに伝わる民謡や舞踊をおぼえ込んでいった。
 
これまで述べてきたことからおわかりのように、アンダルシアには、古代のフェニキヤ人に始まり、中世のモーロ人によって代表される、東洋的な影響が幾重にも重ねられていた。ジプシーたちは、この土地で、彼らの東洋の血によく適した音楽舞踊にめぐりあったともいえよう。

特筆せねばならないのは、すでに触れたとおり、十六、七世紀を通じてアンダルシアには、モーロ人やユダヤ人の残党が少なからず住んでいたということである。 十五世紀末以来、再三の追放令を受けながらも、彼らの子孫はかなり長いあいだスペインに踏みとどまっていた。

彼らが、下層階級の者どうしのよしみで、新来のジプシーたちと密接なかかわりあいを持ったことは疑いない。 そして、ジプシーたちが習いおぼえたこの土地の民謡とは、これらモーロ人やユダヤ人の歌だったということも充分考えられる。
 
序章で明記したように、フラメンコの原型が、ジプシーによって故郷(インド)から、あるいは彼らの通ってきた他の国から、もたらされたものではないことは確かである。

ヨーロッパの、アジアの各地に散らばっているジプシーたちの中に、いや、スペイン内のアンダルシア以外の地方に住むジプシーたちの中にさえ、ーー現代になってからの影響は別としてーーフラメンコに似た音楽はないのだから。 69頁

 

有本紀明氏の「フラメンコのすべて」は2009年刊行で、新しいだけにジプシー観も刷新されています。氏もまた明快に、ジプシーが外から何かをもってきたのではなく、アンダルシアの混淆文化をジプシーが学んだという由来を強調しています。そこがポイントなのでしょう。

 

それでは、フラメンコはどのようにして生まれたのか。無理やりに結論じみたことを用意するとしたら次のようになる。 有史以来アンダルシアには、フェニキア人、ギリシア人、またのちには、ローマ人、西ゴート族、モーロ人(イスラム教徒)、そしてユダヤ人など、多種多様な民族が往来し、さまざまな文化を残していった。

アンダルシアは、数千年にわたってあらゆる文化が混合した土地なのである。 そして十五世紀、この地にロマが到来する。ロマたちは生きるために、このアンダルシアの豊かな文化的遺産をおのれのうちに取り入れていった。このロマとアンダルアの文化の邂逅、なかでもロマンセと呼ばれる伝承歌謡とロマの出会いがフラメンコの萌芽となる。

フラメンコとは、アンダルシアの豊かな文化的な土壌で、混血、共生、邂逅を繰り返した歴史の美しい結実なのである。ロマは最後にやってきて、フラメンコに形を与えたのだ。 9-10頁

 

さらに本書によれば、フラメンコの最大の特徴であるサパテアード(足の踏み鳴らし)が十六世紀にさかのぼれるスペイン舞踊に由来すると明言しています。

 

同じころ(引用者註:19世紀)、サパテアード(足の踏み鳴らし)もフラメンコに取り入れられるようになる。 このゴルペ(足の裏全体)、プランタ(爪先)、タコン(かかと)、プンタ(爪先の突端)の四種の音を基本でつくられる靴音の連続音はエロティックで宗教的な雰囲気すらかもし出す。

十九世紀半ばになり、手拍子やステッキにあわせてギターなしで踊られるようになった。ロマはその最高の演技者である。 もともと、サパテアードはスペイン舞踊として十六世紀にさかのぼれるが、ロマたちがいかにアンダルシアの深い歴史の流れを汲みあげ、豊かなものにするすべを知っていたかの証となろう。

やがてサパテアードはフラメンコ芸術の根本を成す要素のひとつとなり、フラメンコは「足によってリズムを刻む芸術」とまでいわれるようになる。 134-135頁

 

邦訳が2014年に刊行されたゲルハルト・シュタイングレス氏の「そしてカルメンはパリに行った」は、おそらく日本語で読める最新の研究と思います。氏はフランス古典バレエとスペイン舞踊ボレロが19世紀に交流したのが決定的だったとの史観を展開しています。

 

本書の主要な問題関心は、フラメンコの踊り(バイレ・フラメンコ)の起源のカギとなる潮流のひとつ、およびそれがフラメンコ生成の及ぼした影響を明らかにすることにある。

すなわち、パリの雑誌新聞紙上で発見された実証的データ群によって、相互に関係しながらもまったく異なる二つの舞踊流派の熾烈な対決が十九世紀前半に起きたことが証明される。

二つの流派のひとつは、フランス古典バレエ(バイレ・ダクシオンだけでなく後のロマンティック・バレエも含む)、もうひとつは、いわゆるスペインの国民的舞踊のボレロである。 15頁
前にも触れた密閉された時期、すなわちフラメンコがジプシーのエスニシティと同定され、ジプシーに独占される時期が執拗に強調される一方で、フラメンコの構成要素であるアンダルシアの歌や踊りの役割が除外されるか無視されたことが、現実感覚を曇らせてきた。

実際には、アンダルシアの歌と踊りは、十九世紀前半に特殊な芸術的環境のなかで形成され、ほぼ一八五〇年以降に新たなフラメンコ美学の本質的な構成要素となる。
 
一連の実証研究が着手されて明らかになったように、フラメンコ・ジャンルは、同時代のスペイン社会で過小に評価されがちなイタリア音楽とフランス的習慣の影響に抗しつつ、その民衆的・国民的性格ゆえに伝統的であり芸術的なアンダルシアの歌と踊りを土台に、近代的・ジプシー的性格をおびて出現する。

十八世紀半ばに確立されたボレロは流派は、その権威にかげりが見えはじめる十九世紀前半、美学的に際立つジプシー様式を取り入れながら新しい表現形態を模索していた。こうして、のちのフラメンコ流派の基礎が据えつけられ、その存在は一八五〇年代以降、史料的に確認できる。 22-23頁

 


以上三冊、わたしは今回の主題に関連ある箇所を長し読みしただけですが、どれも素晴らしい本です。これほどの研究が(浜田氏の本は40年以上前です)あり、どこの図書館にも置いてあるのに、「源流はカタック(という説もある)」と紹介するのは、さすがにまづいのではないでしょうか。

結論

結論

 

まとめましょう。

 

現在わかっている範囲でのカタックの歴史、ジプシーの実態、フラメンコの形成過程、どの観点から言っても、カタックがフラメンコの源流/起源/ルーツとする「説」は成立しません。

 

あらゆる研究が「カタック=フラメンコ(の)起源説」を否定する成果をあげています。カタックとフラメンコを関連づける根拠はありません。

 

  1. ジプシーが本当にインド起源かは不確定。

  2. ジプシーがインド起源としても、カタックとジプシーとの関係は不明。

  3. ジプシーがインド起源でカタックを踊っていたとしても、そのジプシーとスペインのジプシーの関係が不明。

  4. ジプシーがインド起源とすると出発時期は10世紀頃と推定されるが、その時代のカタックは直立さへしてをらず、複雑なリズム構成はなかった可能性が高い。

  5. 10世紀のカタックがいまのようなカタックの特徴を備えていたとして、それが500年かけてそのままアンダルシアにたどりつくとは考えられない。

  6. フラメンコ形成におけるジプシーの役割は、アンダルシア数千年の混淆文化に「形を与えた」というもので、外から固定的な形式をもってきたのではない。

 

以上により、「カタック=フラメンコ(の)起源説」は偽史であると診断します。

 

強引に、「かつて北インドにいたジプシーがカタックの要素Xをはるかイベリア半島にまで届けフラメンコの源流となった可能性はゼロではない」と言えないことはないですが、なぜそんなことを言う必要がありますか。

 

可能性がゼロでないことなら、それこそなんでも言えてしまうわけで、意味のない言葉だと思います。

 

実際のところ、カタックとフラメンコはぜんぜん関係ないのではないでしょうか。そして、それでよくはないですか。

 

どちらも魅力的なダンスで、似たところがある、その驚きを楽しめばよいのではないでしょうか。「似てる、なるほど源流だ」ではなく、「こういう偶然の類似があるのか、人間文化って面白いな」と考えてみる。

 

ジプシーの存在を都合よく利用するのはもう無理な時代に入っていると思います。最後にそれについて述べて終わりにします。

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カイバル峠を越えるキャラバン隊

地理

地理とエキゾチシズム

「カタック=フラメンコ(の)起源説」は日本のカタック界でことに愛されている偽史です。日本人受けする要素があるからでしょう。

 

実に本稿の目的は、これを偽史だと暴くことでも、偽史全般を否定することでもなく(偽史は面白いものです)、日本人が「カタック=フラメンコ(の)起源説」を求める欲望に、読者の注意を向けることにあります。

 

まづ前提として、日本人が肌感覚とともに総合知を働かせることができるのは、いまのところ東アジアが精一杯で、インドから先のことはいろいろピンとこず、通常の懐疑精神が機能しづらいというのがある。

 

例えばの話、「源義経=チンギス・ハン」説を聞いたとき、日本人なら「まあオモシロ偽史だろう」と判断すると思います。それは日本でふつうに生きていると東アジアの地理や風土や歴史のあれこれが蓄積され、総合知を形成するからです。

 

が、同じ説を、アメリカの真ん中の方の、一生自分の町から出ない、カントリーミュージック以外に聞いたことがないおっちゃんに教えてみたらどうか。ワンチャンあるかも、くらい思いそうです。総合知がないからです。

 

同じことが日本人にとっての「カタック=フラメンコ(の)起源説」について言えると思う。インドにいたジプシーがカタックをスペインに伝えたという。では、どんな道を歩いたか。われわれにイメージできるでしょうか。飛行機でピューっと行くのではない。集団が陸路で数百年かけて移動する。

 

インドから西へ向かうにはカイバル峠を越える。ではその先、どういう道を越えて、どんな山を越え、どんな植生で、どんな人が住んでいるか。バルカン半島はここだよね、ドナウ河はどう流れているのだっけ、イタリアはふつうに通過できるのかしら。そういうことがぜんぜんピンとこない。

 

ジプシーがインドからスペインに行ったという説を考えるなら、そこらへんの地理やら風土やらがピンと来ていないとお話にならないでしょう。実際、日本人はまったくピンとこないので、またその自覚がないので、ワンチャンあるかもと思ってしまうわけです。

 

さてここからが本題です(びっくりですね)。でもすぐに終わります。

 

よく知らない、肌感覚としてピンとこない領域を、わたしたちはしばしばエキゾチシズムで処理します。うっとりした気分で誤魔化してしまうのです。

 

理解してもらえるかはなはだ心もとなく、それゆえいささか憂鬱になるのですが、日本人はエキゾチシズムに対して、もう少し自覚的になるべきではないでしょうか。

 

エキゾチシズムにはどこか無神経なところがあります。ハリウッド映画に出てくる日本の描写がいい加減であったとき、わたしたちは居心地が悪い気がします。逆に丁寧に描かれていると敬意を示された気がしてうれしい。そういうはなしです。

 

「カタック=フラメンコ(の)起源説」は情熱のスペイン、神秘のインド、流浪の民ジプシーというグっとくる要素が三つ入っていて、エキゾチシズムがてんこもりの説と言えます。うっとりできます。けれども、「うっとり」のために、カタック、ジプシー、フラメンコに関する学問の蓄積が無視されています。

 

また、さまざまな人間集団がひとびとの憎悪のはけぐちとして「ジプシー」と名指され、虐殺された歴史を思うとき、ジプシーにご都合主義的な役割を押しつけるこの「説」が倫理的な問題をはらむことをもまた理解されるでしょう。

 

ここに日本人の世界史の動向への鈍さが出てしまっている。去年、Mrs. GREEN APPLEの「コロンブス」という楽曲のプロモーションビデオが植民地主義的だとして炎上しました。「カタック=フラメンコ(の)起源説」がはらむ倫理的問題も、構造として近いものがあります。

上に見たように、この「説」のジプシー観そのものに、帝国主義時代の欧米のアジアへの眼差しが強く刻印されている。そして、フラメンコ研究においてはそこからの脱却が進んでいるわけですね。

日本人はまだ名誉白人として欧米に自己を同一化し、そこからアジアを見るという近代以来の自意識から脱却できていません。が、欧米中心主義からの脱却は世界史の必然であって、アーティストであってもこうした動向に無関心であることが許されない時代に入っている。だからミセスは炎上した。

 

ダンサーも同じでしょう。日本においてカタックは小さな存在ですが、たとえそうであっても、上記したような問題意識を持っているべきと、わたしは考えます。

追記

追記

 

 

これを読んだある方から、「カタック=フラメンコ(の)起源説」はそもそもヤクシニィ矢沢氏が言っいたことだと聞きました。

 

「そもそも」というのは、ヤクシニィ矢沢氏は日本のカタック史の第一世代というか、おさらくはじめのひとで、1970年代から活躍され、数年前に逝去されたと伺っています。

現在の日本のカタックダンサーのほとんどが、広い意味で同氏の門下から出発していることを考えると、なるほどこの説がひろがるわけです。深く得心がゆきました。

 

わたしはもちろん氏と面識はありませんが、いまその弟子筋の第二世代が日本のカタック界を担っていることを考いると、非常に優れた指導者でいらしたのだろうと推察いたします。

実際、弟子を育てる、弟子が育つ、そうして独立する、独立させるいうのは、たいへんな事業だと思いますから。

以上、追記しておきます。

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